時の糯米《もちごめ》は、普通の搗き方ではとうてい上糯米の本質を発揮することが出来なかったのです。初め私たちは餅菓子屋の習慣にならって臨時に搗屋を雇ったものです。東京近郊から冬の閑散期一週間を市内の菓子屋に雇われて来る百姓の一団があり、それがみな元気溌剌としてほとんど疲労を知らぬ若者揃いでした。彼らは白いお米で生魚《なまざかな》が毎日食べられ、その上一日二円ぐらいの日当がもらえるのだから、いつも来年を約して村に戻って行ったものです。いまの仙川牧場はその頃から御縁がついていたのでした。
さてその元気な人たちが交替に杵を取って搗くのですが、前にもいったように中村屋の糯米は普通品よりも品が硬くてなかなか杵が通らない。いくら元気でもだんだん疲れて来て、何本ときまっている杵の数も減り、搗く音も自然威勢よくひびかなくなる。私たちは直接働く人たちの眼には、戦場のような忙しい中をぶらぶらと見てまわり邪魔をするくらいにしか見えなかったかも知れないのですが、私たちはそうしていて決して遊んでいるのではなかった。職人たちが四斗樽に米を入れ、満々と水を張っておいて一眠りする、その間の見張り、米がふやけて樽から洩れそうになっていると見れば水を足し、火鉢の火が師走の夜風に煽られていれば黙って薬缶《やかん》をかけておく。一通り見まわりが済んで室に戻れば、主人は明日の餅の枚数に間違いはないか調べる。それを終って帯を解かずに床に入り、どうにかうとうとする頃には、工場で起きて餅搗きがはじまる。どしんどしん震動が夜の空気をふるわして枕にひびく。それもしまいには慣れるけれど、杵の数をかぞえていると少し足りない。はね起きて工場に下り、今のは杵の数が幾本少なかったと注意し、搗き手はまた文句をいうと煩さく思ったことであろうし、今から思えばずいぶん無理なことであったと気の毒にも思うのですが、よい餅を搗いておとくいの信頼に報いたいと一念それに励まされて、餅搗き中はしみじみ寝た夜もないのでした。また近所へは、のし餅を配り、夜中の騒がしさを一軒一軒お詑びして歩いたものです。
三年目からは電力を用いて搗くことにしたので、搗きが若いという心配はなくなりましたが、今度は機械に故障が生じたら絶対絶命、仕事は全く不可能に陥る。これに対する苦心はまた格別で、手搗き時代の比ではなかった。機械が修繕されるまでみな手を空しくして待たねば
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