商売の道に入った。つい昨日のことのように思うが、それからもう三十七年経ち、今年は六十九歳になった。しかし私はまだ素人だという気がしている。中村屋は今でも素人の店だと思うている。商売に縁のない家に生れ、まるで畑違いの成長をした人間が、どこまでも素人の分を越えないで、こつこつと至って地味に商売をしているのが中村屋である。素人のすることだから花々しいものは何もない。が、この素人は人の後についてここまで歩いて来たのではない。中村屋の商売は人真似ではない。自己の独創をもって歩いて来ている。したがって世間と異《ちが》うところがあって、何故ああ窮屈に異を樹《た》てるのかと不審がられる向きもあろう。世間の例によらない商売の仕様をするので、お得意先に御不便なこともあろう。店員諸子にしても年少の人たちの中には、店の仕来《しきた》りに従うて仕事をしながらも、何故そうするのか解らないでいるものがないとも言えない。私は自分が独自の道を歩いて来たのだから、誰にも真似をせよとは言わない。各人各様の道があり、私の店にいる諸君が、他日中村屋を出て、自ら新機軸を立て、大いに個性を発揮して新商道を起してくれることをこそ望むのであるが、それにつけてはまず自分の経験したところを話し、中村屋の商売の仕振りをよく理解してもらうとともに、将来の参考ともならばと思うのである。

 私が三十二歳にもなって商売に志したのは、自分が生れつき勤め嫌いで、あくまで独立独歩、自由の境涯を求めたことに原因するのはいうまでもないが、それとともにもう一つ直接の動機となったものがある。それは信州の田舎に嫁して来た私の妻が、風俗習慣の違いと安易な田園生活に希望を失い、精神的苦悩から心身疲労して病気になり、行末危ぶまれる状態となったので、病気療養とともに何らかここに新たな生活を起す必要があったのである。
 私は信州、妻は仙台、この二人の結婚の動機も、いま考えると不思議なところにあった。自分は早稲田を卒業後郷里に帰って、専《もっぱ》ら蚕業の研究に没頭し、ついにその研究の結果を記述して「蚕種製造論」なる一書を出版した。この書は我が国蚕業界の進歩改善に少しは貢献するところがあったと今でも自信するが、五版を重ね、全国蚕業家の注目するところとなって、その原理による蚕種を方々から頼んで来るようになり、私もその依頼に応じて、どうやら蚕種製造が私の仕事の
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