とを知らない。ここに一奇談あり、我が店の近隣に、本郷区にても屈指の下宿屋がある。かつて先代中村屋店主と口論したことがあったので、爾来中村屋からは何物も買うまいと決心したものの如く、自分が代がわりとなりし後たびたび辞を低うして用向きに伺ったが、ついに一回の用命もなくはるばる十町も隔っているパン屋からパンを求めているとの事である。しかるにこの遠方のパン店こそ彼がかつて口論せし先代中村屋が再び開業せしものであった。かような奇談もあるくらい、屋号ばかりは記憶されているのであるゆえ、東京市中十万の商店中毎年代がわりするもの少なくとも一万戸を下らずといえども、世人の多くはその代がわりの多きを知らず、年々歳々、各商店の繁栄を加うるものと信じて、同一の商店より買物をなしつつあるのである。かく屋号は大切なものであるから、なるべく旧屋号を踏襲して得意を散逸せしめず、充分商業の呼吸を呑み込んだ上で、徐々改正を施すのが最上の策である。しかしながらこの誤りに陥るのはひとり地方人士のみではない。東京の真ん中に住んでいる官吏諸君もこの価値を認めないものと見え、市区改正に際し、人民に立ち退きを命ずる時、家屋所有者には
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