を立て、修業に就いたら、中途で他業に変ってはならない。せっかく少し手に入りかけた仕事を捨てて他に移れば、そこでまた一年生から始めねばならず、最初からその仕事をしている者には幾分か遅れて、その差は一生取返しがつかない。稀には天分他に勝れて、何をしても人の上に出るものもあるが、そういう人はまた世間みな馬鹿に見えて、自分ならば往く所可ならざるはなしと自惚れ、あれもこれもやって見て、ついに一生何事にも徹底せず、中途半端で終ることが多い。俗に器用貧乏というて貧乏がつきものなのも、この才人は才に任せて、あれこれ移り、一つに集中することが出来ぬからであります。たとえ天性鈍で、はかばかしい出世は望まれなくても、一事に従うて逆わず、その仕事に一生涯を打込むならば、独自の境地に自然と達するものである。とにかく途中であせって商売がえをするほど愚にしてかつこれくらい大なる不経済はありません。
  朋輩より一歩先んずること
 一歩を先んずるというところに諸君の疑問がありはしないか。何も一歩と限らず五歩も十歩も、先んずればよさそうに思われるであろうが、実にこの一歩という点がきわめて大切なのである。人の能力は人の身長の如きもので、奇形的な力士等は別として、彼は驚くほど背が高いと言ったところで僅かに五六寸の違いに過ぎない。まず一割くらいが関の山で、如何に奮発しても朋輩から一歩も二十歩も先んじられるものではありません。もし強いて先んじようとすれば、後日に至ってかえって遅れる。私が青年時代のこと、富士山に登るのに健脚の自信があって、白衣の従者を追い抜き頂の方に素晴しい勢いで登って行った。ところが八合目になると急に疲れて休まねばいられなくなった。休んでいると先ほどの白衣の道者が急がず焦らず悠々とした足取りで通って行く。これではならぬと私も勇を鼓して登って行ったが、頂上に達した時は従者はもう早く着いて休んでいた。世の中のことはすべてこれだなと思って私もその時は考えたが、家康の教えにも、「人生は重き荷を負うて遠き道を往くが如し、急ぐべからず」とあります。実に名言だと思います。
 では一歩先んじようとは何であるか、遅れていても結果において早ければよいではないかと言ってしまったのでは話にならない。一歩を先んじよというのは、常に緊張して努力せよというのであって、その結果は必ず他に一歩を進める事となる。すなわちこの一歩一歩は富士の山麓から山頂までつづけられる努力であって、それは決して私がやったように一時人を出し抜く早足ではない。誰を負かすのでもない。ただ正当なたゆまざる努力である。たとえば我が中村屋の店員の中に定めの時間より一時間も早く出勤する者があるとする。私は決してそれを褒めません。多勢が一緒に働く場合は、一二の人だけ特別に早く出ることは朋輩を無視したやり方で、朋輩の感ずるところもよろしくない。人間は持ちつ持たれつの協同生活で、好んで他を心苦しくするようなことはしてはならない。まして一人だけ早く出勤して精励ぶりを認められようとする心事だとすれば稚気憐れむべしだ。とうていこんなことで成功は得られぬのである。
 しかし朋輩よりおそくなることは断じてよろしくない。諸君の中にもたびたび遅刻して罰俸を受けるものがあるが、定めの時刻に遅れては定刻に出勤する人に対して相済まぬばかりでなく、左様に緊張を欠くことでは、生涯人後に落ちてうだつ[#「うだつ」に傍点]が上らん。以前店によく泣き言をいう職人があって、朝晩に「忙しくて困る。この家のように仕事の多いところはない」と愚痴をいうので、私も我慢が出来なくなって、それでは仕事の少ない閑な店へ行くがよろしいと退職を命じたが、こんなふうに仕事泣きをする人に成功したためしはありません。諸君も新年からは一人も、遅刻せぬよう、めいめい五分十分早く店に着くようにして、定刻には店員全部が揃うて仕事にかかり、将来《ゆくゆく》は皆が皆揃うて成功者となることを希望するのであります。
  報恩感謝の念篤きこと
 これは徳富先生もお話下さった通り、有難い、忝《かたじ》けない、もったいないという心持のあるものは、物を扱うても粗末にせず、人に対しては丁寧であり、自分自身も満足であるゆえ、神にも人にも愛されることとなる。しかるに世には不平家なる者があって、主人に対しても、朋輩に対しても、世間に対しても常に不足不平のほかなく、しまいには自分自身にまで不満を感じて自暴自棄に陥る。従ってその行動は破壊的で世にも人にも容れられない。こういう人は報恩感謝の念なきに原因するのであって、まことに気の毒なものであります。
 諸君はどうかこの三点に注意し、希望を持って着々進まれるよう、私はこの中から一人の落後者も出ないことを祈るものであります。

    勘定合って銭足らず

「勘定合って
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