尊心がないためである。換言すれば客の教育が出来ていないためである。
 震災直後、昌平橋際に昌平橋食堂というのが出来た。一日私はここへ昼飯を食べに行ったことがある。朝食十三銭、夕食十五銭であったように記憶している。が、気付いたことは代金の割に非常に品質が吟味してあり、来ている客が礼儀正しく、静粛であったことである。私はこれはどうした訳だろうといろいろ詮索した。よく聞いて見ると、ここでは月々三百円位の欠損をしているが、この金額だけは市の補助を仰いでいたとのことである。この事情、普通の営利主義の食堂とこと変り、ただ客の便宜を計る外に他意がないものであるという事情を客がよく知ってかくも静粛であり礼儀正しいのであるという話であった。これは特別の場合であるが、普通の商店でも客のための真の利益を常に念頭におくことによって顧客教育は完成される。

    顧客について

 私の店が本郷にあった時分こんなことがあった。店第一の得意である某病院長の邸へ、月末掛けを取りに行った店員が、たったその家一軒に夕方近くまでかかって帰って来た。私は一途に、彼が怠けていたものと思って、帰って来るなり叱りつけたものである。私の見幕が激しかったものだから恐れ入るものと思っていたところ、その店員は不興顔に「旦那それは無理です」という。段々とわけを聞いて見るとこうだ。掛取りには昼頃行ったのだが、いま奥さんはお客さんとお話中だからしばらく待ってくれという事であったので、やむを得ず待つことにした。その時己のほかにも掛け取りが十人くらいたまっていた。一時間経ち、二時間経ちお客様も帰ったような気配にもかかわらず、当の奥さんなかなか出て来ない、そのうち奥の方で「どう皆揃ったかい……それでは払って上げようか」と話声が聞こえて、やがて奥さんが現れた。「では皆さんお払いしますよ、おつりのない人はおつりを持ってもう一度来て下さい」と、手の切れるような十円紙幣を勘定の高いかんにかかわらず、手渡した。店員がいうには「私はちょうどよく釣り銭を持ち合わせておりましたからそれでも今頃帰られましたが、持っていなかった連中は今頃また出かけて[#「出かけて」は底本では「出掛かけて」]行っているに違いありません」とのことであった。
 私はこの話を聞いて非常におどろき、そういうことでは明日から御注文に応ずることは出来ぬから、注文があってもお受けしてはならないと、店の者皆に言い渡した。店では「一番のお得意様で惜しいではありませんか」と私のやり方に反対するものもあったが、私は断然初めの所信をまげなかった。
 その翌日、翌々日と、持って来いとの注文があったが、「ただ今そちらの方へ都合がありませんからまことにお気の毒ですが」という調子で、いつも断ってしまった。こういうことがたび重なるにしたがって、電話の注文も来なくなった。ところが、今まで来たことがない肉屋の小僧が来て、大きな買物をする様になった。はておかしいなと思って、小僧にわけを尋ねて見た。「いや貴方のお店で○○さんの注文をお断りになったので私の方へとばっちりが来て困りましたよ、今も○○さんの所から電話で、中村屋さんのパンを買ってとどけてくれというので、今うかがったわけです、お蔭で私の所の用事が倍になりました」とのことであった。
 いくらお客様でも、そのやり方が不合理な時にそのわがままを許さないというのが私の主義である。

    よい商品が最上の奉仕

 仕入は全部主人がせねばならぬ、それは主人が商品に対して絶対の責任を負わねばならぬからである。他人任せでは往々にして二流品が一流品として仕入れられ、それが一流品として客に渡されすなわちお客を欺瞞する結果となる。そうなると店の信用にかかわり、売れ行きが悪くなる。お店は素人故に何もわからないなどと思うと天罰|覿面《てきめん》、必ずその影響があらわれるものである。
 私は毎月一回市内外の同業者並びに百貨店の調査をしている。そして最も勉強する店の商品の品質と目方と自店のものとを比較対照して、どこのどんな小さい店でも、自分のところのものよりいいものを安く売っているとすれば、飽くまで研究して行く。
 また春秋二季には、京都、大阪、神戸方面から北海道方面に調査に出かける。朝鮮方面まで出かけたこともある。そして他より優れていると自信が出来るまで努力する。
 かくして私の努力と研究は、みなこれをお客様に万遍なく奉仕しているつもりである。全生命を打込んだ奉仕の結晶が私をして今日あらしめたものであり、それはまた同時に私の商業道である。

    能率の平均

 営業能率をあげるに最も重要なことは、人一人の能率をあげることである。能率をあげるには毎日の能率を平均して発揮せしむることが一番よい。ある日は目が回るように忙しく、ある日には
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