であります。妻子をも養い兼ねる有様では、不平不満、真剣な働きの出来ないのは、当然のことと言わねばなりません。先頃米国の視察を終えて帰朝されました藤原銀次郎氏の談にも、日本の会社は米国のそれ等の会社に比し三倍の人を使っていると語られて居りましたが、それなら米国人は日本人の三倍の能力があるかというと、決してそうではありません。カリフォルニヤに働く日本人の能率ははるかに米国人を凌ぐと申しますし、その他を見ても日本人は米国人より決して能率の劣る国民ではないのであります。要するに仕方さえよろしければ少なくとも今より三倍の能力を発揮し得る人々を、現在は指導よろしきを得ず、また根本の不満を除くことをせぬために、かく面白からぬ状態においているのでありまして、上に立つ人々の修業の不足は、実にかくの如く大きな不幸を、一般の社会に及ぼすものと考えらるるのであります。大きさにおいてこそ違え、一工場、一商店の主人も、その責任は同じことでありまして、私は事にふれて自己の修業の不足を思い、主人学の修業の必要をいよいよ痛感するのであります。主人自ら主人学の修業が出来て、はじめてそこで部下を善導し、有用の材に仕立てることが出来るのでありまして、主人は主人であると共に彼等の教育者、また親代りであることを忘れてはならないと思うのであります。
 以上でだいたい主人学の一般を尽したかと思いますが、最後になお一つ重要なる問題が残って居ります。それは妻君と協力の問題であります。我々個人の工場や商店にあっては、その妻君の地位は、多くは主人に匹敵し、稀には主人以上の主要な場合さえあります。今日の大三井の基を築いた人は初代の夫人であって、これはもう知らぬ人もありませんが、かの盛大な明電舎も、当主の母君の力でかの盛運を開かれたものであると聞きます。また味の素の鈴木氏の今日の隆盛の源にも、当主のお祖母様の力が大いに加わっていると申します。我々菓子屋の同業中に見ましても、銀座の木村屋の主婦、本郷三丁目岡野の主婦、本所寿徳庵のおばあさんなど、みな主人以上の店の繁栄に力あったものであります。婦人は勤勉で、細心で、注意深く、政治とか相場とかいう道楽もまずありませんから、賢明なる主婦は、往々にして主人以上の働きをする場合があるのであります。
 しかしながら、そういう賢明な婦人は別として、一般の婦人は天性つづまやかであるため、それが
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