演じたものだが、彼はそうでない。大工、鍛冶仕事から、工場の設計、経営上の計算まで、行くとして可ならざるはなし、でその蘊蓄《うんちく》も専門家に譲らぬほどだった。たいがいのことは彼一人で用が足せた、全く稀しい万能職人であった。
 こういう有様であったから、高いと思った四千円の俸給も考えて見ると安かったのである。

    生クリームとバター

 自分は欧州へ行ったとき、倫敦《ロンドン》でライオンと云う有名なカフェーへ幾回も行った。そしてそのつどに必ず同店自製のクリームのついたケーキを試食したが、何故かいつも腐敗の気味があって甚だまずい。しかるにこのライオンはロンドン市だけでも数百軒の支店があり、中には一時に三千人の客を収容出来るという大きな店もあるほどで、相当の信用のある店であるにもかかわらず、コンナいかがわしい菓子を販売し、またロンドン人も平気でこれを食べているのは甚だ奇怪なことだと考えた。
 そのおり英国に二十二年間も在留して居る小林という方が来られたので、この話をしたところ、「ライオンの売っているのは安物菓子で、評する価値はありません。ランプルメーヤーと云う菓子店なら、貴族や富豪を顧客にしているから品物も上等です」との話だったので、早速ランプルメーヤーに出かけて試食したところ、この店の菓子はクリームも新鮮で、味も非常にすぐれていた。しかし菓子の値段はおよそライオンの二倍の高値であった。
 それでも店の繁昌している所を見ると、ロンドン人の舌も全く馬鹿にしたものではないと思ったが、それにしてもあの盛大なライオンが半腐敗のクリーム菓子を平気で売っており、またロンドン人の多数が平気で食べている理由がちょっと分らなかった。
 ところがその後欧州諸国を巡遊してデンマーク国に行き、同国の農業と乳製品の事を調べて、はじめてロンドンの菓子のまずい原因が分った。
 すなわちロンドン人の食べるクリームとかバターは、デンマーク国から供給されて居るもので、デンマーク国の乳製品はロンドンに到着するのに一昼夜半かかるのであった。
 生クリームは七十七度の温度で一昼夜しか保証できないほど腐敗し易いものであるから、ロンドンに到着して菓子に製造される時は、半腐敗の状態になっているのは当然のことである。半腐敗のクリームをロンドン人が食べているということは不思議のようであるが、例えて言えば、自分の生国
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