頃考えて見ると、どうもこの英語では進級出来そうもない。現級に止まるのはいやだし、面倒くさい、この勉強は飛ばしてしまえという気になり、三月早々退校して上京してしまった。何でもその中学校での思い出の中に、嫂の縫ってくれた赤い裏の羽織を着ていて大いに笑われたことがある。これで見ても中学生である当時の私の幼稚さ加減が判るようだが、兄夫婦は私の願いを容れて早稲田に学ぶことを許し、私は家から二十余里の道を歩いて途中一泊し、碓氷峠の麓のたしか今の横川駅から、生れて初めて汽車に乗って上京した。汽車はまだあれまでしか来ていなかったのである。
 早稲田大学はその時分東京専門学校といい、早稲田の土地も今とは大違いで、一面の田圃、ことに甚だしい低湿地で地盤がゆるく、田の畝を少し力を入れて踏むと四、五間先まで揺れたもので、稲田の間にはところどころ茗荷《みょうが》畑があり、これが早稲田の名物であった。大隈伯の邸宅と相対して、小高い茶畑の丘の一部に建てられたのが専門学校であった。たしか明治十五年創立で、当時は至って入学者少なく、明治十七年第一回の卒業生を出した時は、僅か十二名であったが、私の卒業した二十三年の第七回
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