これまでより良い品が売れることになったのである。
 すると有難いもので店の売上げは日に日に上向き、間もなく二、三割方の増加を示すようになった。こうなると五ヶ条の最後の一つ、国元の養蚕収益から支出するということは要らなかった。どうやら一個のパン屋として、苦しいなりにも独立自営の目途がついたのであった。
 私の母校東京専門学校の大学昇格資金に、金壱百円を寄付することが出来たのは、たしかそれから一年後であった。まず最初の三年計画が一年で行われたような結果であった。

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 書生上がりのパン屋というので当時は多少珍しかったものか、婦女通信社から早速記者が見えて我々の談話を徴し、書生パン屋と題して大いに社会に紹介された。
 この記事が出ると、今まで知らずにいた人も『ははあ、中村屋はそういうパン屋か』とにわかに注意する。大学や一高の学生さんで、わざわざのぞきにやって来るという物好きな方もあって、妻もまだ年は若かったし、さすがに顔を赤くしていたことがあった。
 そんな関係からだんだん学生さんに馴染《なじみ》が出来て、一高の茶話会の菓子はたいてい中村屋へ註文があり、私の方でも
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