もじつに容易でないのである。
かつて石黒忠悳翁が明治初年の頃、八百善に行き、鯛料理を註文したところ、主人が出て『ここ数日、鯛が品切れでございます』と挨拶した。『それでも昨日某鯛料理店では百人ほどの膳に鯛をつけたが』と翁が怪しむと、主人は『地鯛なら何程でもありますが、手前のところでは興津鯛を用いますので』と。翁はこれをきいて『なるほど、さすが八百善だ』と感心されたということであるが、一流料理店の苦心の一通りでないことはこれによっても察しられる。
印度志士の問題
印度人のボースが私の聟《むこ》となり、日本に帰化し、中村屋の幹部として働くようになった因縁については、妻がすでに「黙移」の中に詳しく書いているから、それを参照してもらうことにして、私はむしろ「黙移」を補足する程度にごく大略を述べることにする。
ボースは印度ベンゴールに生れた。階級の厳重な印度で彼の家は四階級の第二なる王族階級であった。彼は十六歳の時父のもとを離れ、祖国を英国の圧制より救わんとする革命運動に投じ、そのうちにラホールにおいて印度総督に爆弾を投じて以来、英国政府は彼の首に一万二千ルピーの懸賞金を付していた。
しかも彼は巧みに英国の魔手を逃れ、大正四年六月日本に亡命した。英国政府も彼が日本に入ったことを察知し、内々探査を進めていたが、その年十一月、在日本の英国官憲はついにボースを発見、日本政府に迫って彼を国外に追放せしめようとした。しかしこういう政治犯は各国ともにこれを保護する習慣であるし、現に英国自身国際的先覚者をもって任じ、その本国では各国の亡命客をどこの国よりも多く保護しているくらいであるから、ボースを印度革命の志士だと言ったのでは、日本に対し目的を達することができない。そこで苦肉の策を案じ、ちょうど欧州大戦中であったから、ボースを世界の敵なる独逸《ドイツ》の秘密探偵として日本に潜入したものであるとなし、彼が日本から追われて領外に出るのを待って殺そうという計画を立てた。大英帝国ともあるものがじつに卑怯千万な話であったが、当時我が政府の外交に当る人々は、欧州列強に対し甚だ弱気で全く受身であったから、こんな侮蔑的要求をも拒否することが出来ず、ボース及び同志グプタの両志士に対し、一週間以内に国外へ退去することを命じた。
このことが聞えると、言論機関は一斉に立って我が軟弱外交を攻撃し
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