僅かにこの三品ではあったが、これだけでもただちに製造して間に合わせたのは中村屋だけで、したがって製品は、日本銀行の金庫を護る兵士たちのおやつにもなれば、さらに惨状の酷い横浜からもはるばる買いに来るという次第で、拵えても拵えても間に合わず、半日の製品が一時間の販売にも足りないという状況であった。
余震は頻々として来たり、ぐらぐらと震動する工場の中は、尋常の心持ではとても仕事の出来るところではなかった。しかし店頭に山なす人々の要求を思えば、危険を顧みる暇もない。全く昼夜兼行全店員よくあれだけの働きが出来たと思う。夜半に中村屋の煙突から火の子が出たのを見て、誰しもこの折柄で昂奮していて、驚破《すわ》また火事よと駆けつけ『何だ中村屋か、人騒がせをしやがる』と腹を立てた人もあった。しかしそれを制して『中村屋は徹夜してパンを焼いてるんだ、この際これがただの商売気で出来ることかい』という多くの声があり、やはり心から心へ通じて真に涙ぐましいものがあった。当時下町の問屋はことごとく焼失して、材料を仕入れようにも残っていない。山の手の商店にあった僅かな品もたちまち引張り凧でからからになり、食料品缶詰は倍値に売られ、一袋四円の小麦粉が十六円まで奔騰した。
私の店でも二日ほどで原料の砂糖と粉が切れてしまった。そこで至急使いを江東の大島方面に派し、砂糖会社と製粉会社に交渉した。するとこれらの会社では、問屋からの註文は絶え、地方への輸送の途も断たれていた矢先とて、大いに歓迎して、従来問屋から仕入れた値よりもかえって格安に売ってくれた。
荷馬車数台に満載した砂糖と粉が店頭に着いた時は、『ああこれで原料の不安が解消した』と、思わず全員飛び出して万歳を叫んだ。この荷が手に入ったので私は店頭に張り出して、罹災者の方々へは小麦粉を原価の四円で分けて上げることにし、製品のパンや菓子も従前よりはおよそ一割方安く売ることが出来て、罹災者を初め物資欠乏の中にある人々へ、我が中村屋がいくらかでも務めることが出来たと思うと、私はじつに嬉しかった。
何しろあの大震火災のことで、私の方も災禍を免れたといっても相当の損害はあったが、それも世間から見れば口にして言うほどのものでなく、一人の負傷者さえも出さなかったことは、全く神仏の加護によるものだと真実有難く思い、それがこの原価販売となっただけのことであったが、震災
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