この評判は延いて日本菓子の紹介となり、一ヶ年後にはパンよりも日本菓子の方が成績を上げて、中村屋の総売上げは急に倍加し、完全に販売能率の平均を見ることが出来たのであった。

 しかしながら新兵衛餅にも不作の年はあった。新兵衛餅を産する所は、埼玉県越ヶ谷、新兵衛新田と称し、昔は沼地であったものを埋め立てて田としたのであるから、傍を流れる綾瀬川が増水するとたちまち浸水し、せっかくの最上餅も、三流以下の品に落ちてしまう。
 それゆえ、この土地に限って出水の季節に先立ち、一ヶ月も早く刈り入れるのであるが、それでも水害を蒙ることがある。私は初めのうちそれを知らなかったから、浸水した餅を最上餅として売り出し、後で品質の劣ったことが判ってそれを全部引き取り、改めて他の餅を納めてお客様にお詫びしたことがある。
 それ以来私は米の成熟期と収穫期と、二度は必ず産地に出向き、実地を視察することにしている。
 ある年、関東地方は雨天続きで、糯米の品質が劣って、いかに新兵衛でも例年通りの最上の餅とはいえまいという見込であった。そこで私は広く日本全国の作柄を調査してみたが、その結果日本海方面はこちらとは反対に、例年にない好天気であったことを知り、秋田から餅米を取りよせて新兵衛餅と比較して見た。すると果たしてこの年は秋田餅の方が優れていたから、これを用いてお得意に配り、値も安くて品も良かったと好評を博したことがあった。
 この場合、私が秋田餅の上出来なのを知らず、例年通り新兵衛餅を天下一品として納めていたとしたら、せっかく得たお得意を失い、中村屋の信用をおとすところであったのである。
 こんなふうで、天下一品と折紙のついた原料を扱うからといって、決して安心は出来ない。四囲の状況に照して注意を怠らず、研究心強く、またその労を厭うところがあってはならないのだということを、その時しみじみ感じたことであった。

    良い品を廉く

 私が静坐の岡田虎次郎先生を知ったのは明治四十五年の春であった。その動機は妻が「黙移」に書いているからここには省くが、とにかく先生はその時代におけるたしかに驚嘆すべき存在であった。その教えを受けるものには大学教授あり、富豪あり、宗教家あり、貴族あり、学生あり、また狂える婦人あり、病める者あり、じつに社会各層を網羅し、人生の諸相をここに集めたかの観があり、それらの人々がじつに
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