先生の教え子であり、先生の高弟島貫兵太夫氏は兄弟子に当り、幼年時代からその懇切な指導を受けたものであった。すなわち押川先生と島貫氏の媒酌で、明治三十年、私の許《もと》に嫁いで来たのである。式は私が上京して牛込教会で挙げた。私は二十八歳、良は二十二歳であった。
良は最初田園の生活をよろこび、私の蚕種製造の仕事にもよき助手として働くことを惜しまなかったが、都会において受けた教養と、全心全霊を打ち込まねば止まぬ性格と、それには周囲があまりに相違した。その中で長女俊子が生れ、次いで長男安雄が生れた。するとまたその子供の教育が心配されて来る。良はとうとう病気になったので、私は両親に願って妻の病気療養のため上京の途についた。俊子は両親の許に残し、乳飲子の安雄をつれ、喘息で困難な妻を心配しながら、徒歩で十里の山道を越えて上田駅に向かった。時は明治三十四年九月のことである。
東京に着くと妻は活気をとり戻し、病気も拭われたように癒《い》えた。この上京を機会として我々は東京永住の覚悟を定め、郷里の仕送りを仰がずに最初から独立独歩、全く新たに生活を築くことを誓い、勤めぎらいな私であるから、では商売をしようということになったのである。
パン屋を開く
さて商売をするとはきめたが、商いどころか、日々入用のものを買うことすら知らぬ我々である。何商売をすればよいものか、軽々しく着手すれば失敗に終るにきまっていた。これは素人の弱味ということに充分の自覚を持ってかからねばならぬと思われた。そう考えると、昔からある商売では、玄人の中へ素人が入るのだから、とうてい肩をならべて行かれそうもない。むしろ冒険のようには見えても、西洋にあって日本にまだない商売か、あるいは近年ようやく行われては来たが、まだ新しくて誰が行ってもまず同じこと、素人玄人の開きの少ないという性質のものを選ぶのが、まだしもよさそうであった。
そこで思いついたのが西洋のコーヒー店のようなものを開くことであった。上京後仮りに落着いたのが本郷であったから、ちょうど大学付近で、この店はいっそう面白そうに考えられた。そうだ、それがよかろうと夫婦相談一決して、いざ準備にかかろうとすると、もう一足お先に、本郷五丁目青木堂前に、淀見軒というミルク・ホールが出来てしまった。残念ながら先を越されて、私はもう手の出しようがなかったのである。さ
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