人では得意先をまわり切れぬという盛況となった。すなわち狩野では出来ないことが浅野では出来たのである。これを見ても適材を適所におくということがいかに大切であるか、人間に向き不向きのあるのも免れ難いこととして、人を用いる場合にはよくよく注意せねばならぬことである。再び「黙移」を引用。
[#ここから1字下げ]
――その頃大久保の新開地は水野葉舟、吉江孤雁、国木田独歩――間もなく茅ヶ崎南湖院に入院――、戸川秋骨先生、それに島崎藤村先生、島崎先生は三人のお子を失われてから新片町に移転されましたが、とにかくそういう方々のよりあいで一時は文士村と称されたものでありまして、また淀橋の櫟林の聖者としてお名のひびいた内村鑑三先生、その隣りのレバノン教会牧師福田錠二氏などが、その行商の最初の得意となって御後援下されて、この文士村の知名の方々へも御用聞きに伺いまして、それぞれお引立てに預かるようになりました。初めは一週に一度ずつまわることにしておりました。この救世軍の人がじつによく出来た人で、頭のてっぺんから足の先まで忠実に充ち溢れている、というような、また時間を最も正確に守り、お約束の時間には必ず配達してお間に合わせるので、本郷中村屋のパンの評判が上がり、したがってお得意も日に日に増え、一週に二度となり三度になり、おやつ頃にはよそからお買いにならずに待っていて下さるようになりました。
それがだんだんと拡がり、千駄ヶ谷方面、代々木、柏木と、もうとうていまわり切れないほど広範囲にお得意を持つようになって、すると今度はそのお得意様の方から『どうだ一つこちらへ支店を出しては』というお心入れで、私は、それをききました時は有難さに泣き、ああもったいないと思いました。その番頭はお得意のお引立てにいっそう力を得まして、支店候補地をあらかじめ見て来たといって『千駄ヶ谷駅付近が最も有望です』という報告でした。
しかしその時私は四度目のお産の後、肥立が思わしくなく、床に就きがちでしたところへ、僅か半年でそのみどり児を失い、その悲しみや内外の心労と疲れから全く絶望の状態に陥っておりまして、気力もなく昏々と眠りつづけておりました。その中で、はっと気がつき『これではいけない』と起き上がりました。『店の人たちがあんなに働いて開拓していてくれるのに、これは早く見に行かなくては』と思うと、もう一時もじっとしていら
前へ
次へ
全118ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
相馬 愛蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング