当時私の郷里長野県選出の代議士で川上源一という人があり、ある日店に来て仕事の様子を見て、『君もこれだけの工場を持っているのだから、一つ軍用ビスケットを製造してはどうだ、関係当局の方は私が斡旋する』と言って勧められた。私は川上氏の好意を感謝したが、『いや私はまだ素人です、軍用ビスケットの製造は私には大仕事すぎます』と言い、手を出す気のないことを答えた。
川上氏は『それは惜しい、今は二度と得難い飛躍の機会だ、勇気を出して是非やって見るよう』と再三推し勧められたが、私はやはり従わなかった。自分のような経験の浅いものがそういう離れわざを試みるのは全く僭越の沙汰だ、きっと成功しない、とほんとうにそう考えていたからである。
川上氏は私の頑固なのに呆《あき》れて帰られたが、当時そういうよい手蔓《てづる》がありながらこの仕事に乗り出さぬというのは、あまりに臆病すぎる話であったかも知れない。実際この製造に参加した店々はその後も毎日莫大な利益を上げ、職人の給料なども一躍三倍という素晴しい景気を見せて、その上納入数量はますます増加する、どこまで進展するか知れぬという有様であった。が、間もなくこの仕事の成行きを見るに及んで、私はやっぱり間違わなかったことを知った。軍用ビスケットの需要が大きく、製造工場が争うて原料を吸収する結果、原料はついに一割五分高となり、ビスケットを入れて満州に送る箱材料の松板は三、四割高、箱の内張りのブリキ板と燃料の石炭は一躍して二倍という暴騰であった。
さてこうなって見ると、初めのうちは毎日数十円の利益を見て有頂天になっていたものが、今度は反対にその利益を吐き出して欠損を補い、それも出来なくなると、何しろ勢いに乗じて工場を拡張していただけに打撃が大きくて、破産また破産、参加した七、八軒が揃ってじつに気の毒なことになってしまった。ビスケットばかりでなく、他の食料品や酒類の納入者もだいたいパン店と同様の悲運に陥った。私ももしあの時手を出していたなら、これら先輩同業者と同じ失敗をし、中村屋も破産したに違いない。誘われながらこれを免れたのは何という幸運であったか。
新菓発売のよろこび
さらに開業第三年目の思い出の中には、新案クリームパンとクリームワップルの二つがある。私はかねて中村屋を支持して下さるお得意に対し、これはと喜んでもらえるような新製品を何が
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