村屋よりもはるかに優勢で、めざましく繁昌する食料品店があった。この店ではミルク、バター、ジャム、ビスケット等を、ほとんど仕入原価で売っていた。近所で、しかも同じ商品を扱っている中村屋としては、じつに迷惑なことであった。私の経営方針は、店の経費が償われて職人その他の雇人に世間並みの待遇さえ出来れば、それ以上の利益はなくとも宜《よろ》しいという信念に立っていたから、薄利多売大いに同感であるが、その店のようにミルクやジャムをほとんど無手数料で売っていたのでは、いくら売れたにしても店の立ちようがない。そんな商売は無茶というものであった。それでもその店は見事やって行く。どうも不思議だ。仕入れが安いか、何かぬけ道があるか、どうも正直な頭では解しかねることであったので、私はなおもその店に注意し、また相当の対抗策もなくてはならぬところであるから、いろいろ熱心に研究していた。
するとある日のこと、横浜の貿易商が来て私に、葡萄酒、コニャック、シャンパン等を売って見ないかという勧誘をした。私はかつて郷里において禁酒会を組織したほどで、飲酒の害は知りぬいていたから、それを自分の店で売ることなど思いもよらない。で、膠《にべ》もなく拒絶した。しかし彼はなかなか引き退《さが》らない。私の最も気にしているところの例の店を指して、『あの店がミルクやジャムであれだけの安売りをして立って行けるわけをあなたは御存じですか』と、期するところあり気にいう。つづいて『それはこの洋酒や西洋煙草を売るからですよ。洋酒はだいたい卸値の二倍に売るもので、これあればこそ食料品の安売りが出来るのです、食料品は囮《おとり》ですよ』
なるほど、この説明で私の長い間の疑問は解けた。それならば進んで、その店の安売りを中止させる手段《てだて》は――。勧誘子はさらに語をついで『中村屋もせめて滋養の酒だけでも店において、他の品同様に二割くらいの利益で販売なすってはどうです。そうすれば洋酒の客はみなこちらへ来るから、あの店の財源はたちまち涸渇する。それでは食料品の安売りも出来ないという順序でしょう』
どうだこの種あかしを聞いては、嫌でも洋酒を売らざるを得ぬであろう、と言わんばかりの説明であって、折が折とて私もこれに動かされた。それではと葡萄酒ほか二、三の洋酒を店におくことにした。
さてお得意先へも洋酒販売のことを披露すると、翌日内
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