は五万部も売れて、あれを読んでお蔭で好結果を得たといって礼状もたくさん来たし、わざわざ遠く九州辺りから私のところへ講習を受けに来た人も少なくなかった。私はその後養蚕から全く離れてしまったが、今でも養蚕の話を聞くと旧友に会ったようななつかしみを感ずるのである。

 蚕種製造家として郷里に落着くとともに、私の周囲には自然近辺の青年たちが集って来るようになった。都会に憧れ、新しい知識を求めてやまぬ田舎の若者たちにしてみれば、私が東京の学校を卒業して帰ったというだけで充分興味があったのであろう。私はこれらの青年に基督《キリスト》の話をし、禁酒をすすめた。若者たちはみなよく聴いてくれて、彼らはついに畑仕事の間にもふところに聖書を入れているまでになった。
 信州は維新当時廃仏毀釈の行われた所であるだけに、外来の新宗教の入り易い点があった。近村にはすでにメソヂスト派の牧師がおり、土地で名の知られている青年三沢亀太郎氏もすでに信者になっていた。私はこの三沢氏とともに牧師を援けて伝道演説をするようになり、寒い夜でも彼方の村此方の村と集まりに出かけて、ずいぶん熱心に説きまわった。また禁酒会を起し、会員数十名に上り、自分がその会長になった。これには内村鑑三先生や山室軍平氏なども応援演説に来会され、心から共鳴する青年が続々とあらわれて、中でも第一に殉教的熱情を示したものに井口喜源治氏があった。
 井口君は中学校での同級生で、当時穂高小学校の首席訓導であったが、彼の信仰はついにその教え子に及び、荻原守衛その他の生徒が信者になった。最初冷静に見て居った校長もこれに驚き、生徒が学校に来て基督教になるようでは父兄に対して相済まぬというわけで、井口氏を他校に転任させようとした。そこで井口氏の辞職となり、我々友人は井口氏を他村に送るに忍びず、また学校の態度にも憤慨したので、村の有力者臼井喜代氏や長兄安兵衛その他の有志と力を合わせ、新たに井口氏を推して研成義塾を設け、町村とは全く独立した高等科の単級教授を開始したのである。時は明治三十一年の秋、私も井口氏も同じ二十九歳であった。

 さて井口君はこの研成義塾を守って、去る昭和七年の十月病いを得て退くまで、じつに三十五年間全く一日の如く奮闘した。村の子供の多くは穂高小学校の尋常科を終るとそのままそこの高等科に残り、特に理解のある家の子弟だけが研成義塾に入っ
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