矢島楫子女史、大関和子、三谷民子女史とも相識り、また基督《キリスト》教界の元老押川方義、植村正久、内村鑑三、松村介石、本田庸一、小崎弘道、服部綾雄等の諸先生にも教えを受ける機会を得た。その他島田三郎、巌本善治、津田仙、山室軍平、また島田三郎氏からの縁で田口卯吉氏に接することを得たのも、この教えに連なった幸いというべきであろう。しかしまた当然の結果として、財界政界の方面には一人の友人をも持つことが出来なかったのである。また当時目白にはかの有名な雲照律師がおられたが、目白と早稲田と目と鼻の間でいながら、私は基督教徒であるため、ついに一度も律師の教えを聴きに行かなかった。今思えばじつに惜しいことをしたものである。その時分の基督教徒は仏教を時代後れとして、全く顧みなかったのである。
 早稲田を卒業すると私は一年ほど北海道に行った。この時分の北海道行きはまるで外国へでも行くようであった。まだ鉄道は青森まで通じていなかったので、横浜から船に乗り、函館を経て小樽に上陸、札幌に着いた。私は月給取りになるのがいやで、開墾最中の北海道なら何か面白い仕事があるだろうと、はるばる求めに行ったのであるが、実際私の目に映った当時の札幌は素晴しかった。内地ではいかに新しくといっても伝統があるから徐々に新様式を盛って行くが、北海道は全くの新天地、すべて米国式に思い切って目新しい。私はここへも教会の縁故で矢島楫子女史からそのお弟子の藤村頴子女史に紹介をもらって行ったのであった。女史は札幌の北星女学校に教鞭を取っておられたが、私はかねて津田仙氏、安藤太郎氏などの禁酒運動に共鳴して禁酒会員となっていたから、さらに女史とその夫君藤村信吉氏の紹介で、北海道における禁酒会長の伊藤一隆氏その他の人とも親しくすることが出来た。
 さて滞留一周年の実地見学で、私はいよいよ北海道が将来有望の地であることを信じ、とりあえず相当の土地を札幌郊外に購入することを思い立って、出資を郷里に求むべく大いに望みを抱いて帰郷した。
 しかしその話は郷里において長兄の賛成を得ることが出来ず、したがって私はそのまま郷里に止まるほかなかった。長兄夫婦には子供がなかったので、私を相続人に定めていたし、当時は北海道といっても田舎の者には想像もつかず、とにかくあまり遠方だからとて、ついに問題にならなかったのである。
 私はこの一年の北海道滞留中
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