が「研成学校」であり、青年時代に同志と共に創立したのが「研成義塾」であって、私と研成という名には離れられない因縁があるらしい。そこでこの研成学校と研成義塾のことについて、一つは反省のため、また一つには研成学院のよき成長を祈るために、参考として書いておこうと思うのである。
研成学校は明治五年の頃、長野県で最初に設けられた小学校であった。私の生れたのは信州安曇郡穂高村の白金という所で、この研成学校は、家から十二、三丁のところにあった。
私の家は穂高村でもずいぶん古く、家で祀った産土神が現在村の氏神になっているほどで、祖父安兵衛までは代々庄屋を勤め、苗字帯刀御免、相馬という姓から見ても、また家伝の接骨術などあるのを見ても、ただの百姓ではないことは判っていたが、土蔵の梁から一巻の記録があらわれたのは、後に私たちが東京へ出てからのことで、それを発見したのは当時十歳で国許《くにもと》にいた安雄のいたずらの手柄ともいうべく、彼が土蔵の天井裏に這い上って、妙な包み物が梁にくくりつけてあるのを見つけ、それを取り下ろして調べて見ると、それが相馬家の系図であって、相馬は遠く平将門を祖とすることが判り、別に川中島の戦いにおける武田信玄の感状なども添うているところを見ると、私どもの祖先はその時代に武田の客将となって信州に入り、ついにそれが永住の地となったものであるらしい。
私はそういう家に生れたが、二歳にして父を失い、七歳で母にも死に別れ、長兄夫婦に育てられた。長兄は私より十五歳上、嫂は十歳上であったから、まだ本当の若夫婦で、子供の養育に経験のある筈はない。ただ早く父母に別れた幼弟を憐れがって我が子のように鍾愛し、私が親のないことを不幸だと思ったことは一度もないくらい、それは大切にしてくれたものであった。
私が十三歳になると、兄夫婦は私の教育を完全にしてやろうと考え、通学に不便なほどの道でもないのに、研成学校の寄宿舎に入れてくれた。費用もかかることであるのに、それを惜しまず兄がこの方法をとったことから見ても、当時の研成学校のいかに名高く、また地元の信頼を受けていたかが分るであろう。地元ばかりでなく、その名は信州全体に響いていたので、遠方から来て学ぶ者が少なくない。それゆえ校舎の二階に寄宿の設けが出来ていたのであった。
兄はためを思うて入れてくれたのだが、寄宿舎生活は兄が考えていたよ
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