、さらに進んで一週一日の休みと勤務時間短縮の必要が考えられるのである。そうしてこれが実行されれば長年の我々の願いもようやく成就するのであって、今はその日の一日も早く至らんことを希望している。
 少年諸君のための勉学の道はようやく昭和十二年五月着手、矢吹慶輝博士の御指導によって、文学士谷山恵林氏以下五人の良師を得、工場の一部にとりあえずごく小規模の教室を設け、研成学院と名づけ、とにかく開校することが出来たのはまことに同慶に堪えない。しかし研成学院はまだ全く未知数に属し、成功か不成功か予想は許されないが、先生方の熱心と諸君の倦《う》まざる努力によって、好結果をあげることが出来ればまことに幸いである。五月十八日開校式の際私が諸君に述べたところをここに再録して、この稿を結ぶことにする。
 中村屋は諸君も御承知の通り、もう三十六年の歴史を有しております。初めのほどは、夜学をしたいという店員には通学の便利を与えておりました。そのため夜学に行く人も多くあり、現在計理士の新居氏や満鉄の図書館長勝家氏等も、その頃店で働きながら大学の夜学部に通うてあれだけの出世をしたのであります。しかしだんだん世の中が切迫して、学校の方も学課がむつかしくなり、また真剣に学ばなければ競争上やって行けないというようなことになり、我が中村屋も以前よりは幾倍忙しくなって、店に働きながら夜学に通うことはどうも無理だと考えているうちに、夜学に行く者はだいぶ健康を損じて、そのうちには死ぬ者さえも出たので、これではならぬ、二兎を追う者は一兎を獲ずという諺の通りで、学問もしよう、店の仕事もおぼえようというのでは双方とも駄目であると分ったので、学問をしたいものは他所に行き、商売に志すものは業務に専心すべしとして、十年ほど前から夜学に通うことを禁じてしまった。
 その結果病人は少なくなり、健康状態は著しく良くなったけれども、最近中村屋も、以前の十二、三時間も働いたのを十時間制に改めて、少しく時間に余裕が出来たところから、ひそかに会話等を習いに行く者もあると聞いたので、若い者の学問をしたいというこの希望の若干を叶《かな》えてやりたい、健康を悪くしない程度で、と考え、ようやくその案が立ち、またきわめて適任な先生が見当ったので、仕事のかたわらその休み時間を利用して学問を少しさせようじゃないかと、今度この学院を建てることにしたわけ
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