。
その結果は、淀橋署長|黒葛原《つづらはら》氏の辞職となった。私もそれ以上の追及は気の毒と考えたので出訴を取り下げ、三十二名の警官たちに対しては、彼らはただ署長の命令で行ったまでのことであるから、別に問題としなかったのである。
黒葛原《つづらはら》氏は去ったが、幸いにして私の真意は警察側に通じ、怨恨を残すどころか、これによって警察と中村屋は事件前よりかえって理解を進めた形となった。真剣に対立して見て初めて誠を感じ合ったというものであろう。
警察側がただ一人の盲人を連れ行くために、夜中三十二名の警官を動員したなどは全く常識の沙汰でないが、これはボース事件の記憶からこのたびも私がエロシェンコを匿しはせぬかとの疑念から出たものであったろう。しかしそれとこれとは全然問題の性質が異い、エロシェンコに対しては私は最初から国法に服従せしめる方針をとり、その態度は自ずから明白であったのである。ただ警察は疑心暗鬼にとらわれたのであって、思えば黒葛原氏も気の毒なことであった。
ボース事件も、この黒葛原氏が麻布署長の時代であったというが、同氏と中村屋とはよくよく因縁が深かったものだと思う。
月餅の由来
月餅も支那饅頭もこの頃では世間に広く行き渡ったが、私は先年支那に旅して初めてこれを味わい、支那みやげとして売り出したものであった。
私が妻と支那見学に赴いたのは、昭和二年十月、ちょうど新宿に三越支店が乗り出して来た秋であった。当時支那は張作霖の全盛時代で、幣原外相の軟弱外交に足下を見透かされてか、日本人は至るところで馬鹿にされていた。私が奉天北京間の一等寝台券二枚を求めると、その一人分の室は満州兵のために横領され、我々両人はその一夜を寝ずに過ごさねばならなかった。もっともこんな目に遭ったのは我々ばかりでなく、白耳義公使が北京郊外の明の十三陵見物に行って、匪賊《ひぞく》のために素裸にされた事件もこの当時であった。
そんなわけで、我々がぜひ見たいと思って行った大同の石仏も、そちらはことに危険だからと留められて、ついに見ずじまいで帰って来たが、北京では坂西閣下や多田中将(当時中佐)の斡旋で、宮殿も秘園も充分に見学し、僅かな日数ではあったけれど、とにかく老大国の支那というものの風貌に接することが出来たのは幸いであった。
この北京見物においても私の興味を惹いたのは、北京
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