疑の眼を光らし、態度はますます露骨になり、日本に対し無礼の事柄が少なくなかったので、さすが事勿《ことなか》れ主義の石井外務大臣もついに勘忍袋の緒が切れたのであろう、俄然態度を硬化し、両志士を秘かに保護する決意を告げて、頭山翁に面会を求めて来た。それは大正五年四月十五日のこと、会見の場所は四谷見付の三河屋であった。今はもうなくなったが三河屋は当時東京一の牛肉屋で、座敷も相当立派であったし、まだ明治気分の残っている時代のこととて、スキ焼を囲んで毎度知名の士の会合の場所となったものである。
そこでボース氏の身柄もようやく安全となって、我々の手許を離れることになったが、この四ヶ月余の滞留で我々夫婦と彼とは親子のような情味を感ずるようになり、その後頭山先生の切望によって娘の俊子を彼に嫁がせた。したがってボースと中村屋との関係はいっそう密接となった次第である。
いま一人のグプタ氏は我が家に滞留中行方不明となり、メキシコに亡命したと言われている。
露国の盲詩人とルバシカ
喫茶部では、純印度料理のカリー・ライスのほかに、露西亜料理のボルシチュを出し、また店員の制服はルバシカで、商品には露西亜チョコレートがある。これら露西亜物の因縁については、盲詩人エロシェンコのことを語らねばなるまい。
妻は昔から文学好きで、私のところに来る前から黒光の名で何か書いていたが、特に露西亜文学に興味を持ち、早稲田の片上伸氏、昇曙夢氏、若くして死んだが桂井当之助氏などと親しくし、また在留の露西亜人で遊びに来るものが多かった。エロシェンコは初め神近市子氏の紹介で来たが、彼は盲学校に学ぶために日本に来たところ、その後に起った本国の革命騒ぎで送金が絶えて困っているということであった。我々は彼が盲人の身で異郷に来て寄る辺もないのを気の毒に思い、かつてボースを匿《かく》まった画室に住まわせて、二、三年の間、家の者同様に不自由な彼の身のまわりの世話などしてやっていた。
彼は四歳にして失明し、光明を仰ぎ得ずに成長したからでもあろうが、見るところ著しく不平家であった。後、暁民会の高津正道氏等と交際するようになり、当局からボルシェヴィキの嫌疑を受け、退去命令を発せられて日本を去ったが、我ら夫婦は彼が滞留中の日常を通じて露西亜の衣食住に対し新たな興味を持ったのであった。ついに大正十一年六月ハルピンまで出
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