まだこれのみでなし、年に二度の湯治行き、あれをお前さん達は、並の湯治とお思ひかへと、得意顔に説き出せば、藤助ホクホクうなづきて、それやアなんぼ老人の己れだつても勘付かぬ事はなし、病人とも見えぬ身躰の保養三昧旦那のお種宿したき願ひと、口癖のやうにいふてはをれど、忙《せわ》しき旦那の一所に行かれぬを幸ひに須磨の海水、有馬の温泉と、毎年極まつて行くのなれど、薬は水でも湯でもなく白い首ののつぺり[#「のつぺり」に傍点]男とは、妾宅伝来のお鈴の蔭口、あれも大方近頃手当でも薄らいだのであらふ。この事だけは、一言旦那に申上げたけれど、奥様でさへ口をつぐまるるに、下部《しもべ》風情の、我等が出しや張る幕でないと、こらへてはをるものの、この間もこの間とて奥様の、お艶の留守を気にせられお艶殿が早う帰つてくれずでは、旦那様のお世話は不行届きがちでお気の毒やと、お艶の居ぬ間はいっそう旦那に気を兼ねらるる様子、まるで初心の嫁御寮が、姑の前へ出るやうなと、己れは見てさへ涙が溢《こぼ》れると老人の一徹に、思はず水涕打ちかめば、お針とお三は一時に吹出し、藤助どのの何事ぞ、当節柄そんな忠義三昧は流行らぬ流行らぬそれよりは鬼の来ぬ間の、洗濯時とは今日この頃の事、お艶どのも、大方須磨で今頃はお楽しみであろ。我等は似合ひのお芋の御馳走、出し合ひで買ふじやないかと、お針の発議はたちどころに成立ちて、藤助|爺《おやじ》は使命を帯び、風呂敷片手に立出でたるが、やがては焼芋の砲煙弾雨に、お艶の噂も中止となりしなるべし。
その二
日髪日化粧の昔日に引替へ、今は堅気の奥様風、髪は月六才の定めにて髷は丸髷の外は、品格下るといひて結はず。お妾さんの品格とはどんなものにやと、蔭で舌出す髪結のお吉《きち》も盆暮の祝儀物、さては芝居のお供に外れじと、喋々しきお世辞にお艶を嬉しがらす奥の手は、いつも丸三郎の噂なり。私が髪結風情ならずば、身上打込んでも大事ない男と、櫛取る手さへ止めて、心底丸三郎贔負のやうに夢中になりてのはなし振り気に叶ひ、さんざん人をたらせし覚あるお艶も、これにはふいと釣込まれて、下女下男よりは吝嗇《けち》と譏らるる身が、お吉よりは天晴れ切れ離れよきお妾さまと誉められぬ。
四畳半の小坐敷に、本段通二枚敷き列ねて、床の間の花瓶には白菊二三本あつさりと活けたるを右にして、縁側の明るき方に向ひ紫檀の鏡台据
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