はねど、我も甲田の事に拘らひてより、久しく君子をおとづれねば、明日あたりは行きても見むかと思へる折しも、その日ゆくりなくも君子の来りたれば、殊の外打喜び、わずか一ヶ月二タ月のほどなれど、久しく逢見ぬ心地するなど例の如く親しく語らひゐたる内に、君子はふと甲田の噂を始めぬ。
 花子さんアノ甲田さんネ、あの方は私はたいへんいやな方だと思つてましたが、この間から時々家へいらつしやるもんですから、少しお話してみましたが、見掛けよりはしつかりした方ですネー。この詞を聞きたる花子ハツと思ひて、面の色も変はりしにぞ轟く胸をやうやく抑へて、ヲヤ甲田さんがあなたの処へいらつしやいますのハアいらつしやいますよたびたびヲヤと花子はしばし無言にて君子の顔を眺めゐしが、いよいよ確かめたくなりてや、詞も自ら急激になり、なぜでしやう、どうしたんでしやうと重ねかけて問ひぬ。君子は少しもその間の消息を知らねば、これは一向平気なものにて、なアにネ、父が碁が好きなもんですから、いつも碁の相手をする骨董屋が、あの方も碁が好きだからツて連れて来たんですよ。花子はホツと一息したれど、思ひ合はする女髪結の話もあり、まだまだ油断するところでなしと、いつそう詞を進めて、なほも委しく問ひかけぬ。さうそれであなたもお心易くなさるの。いいゑ、心易くといふ程でもありませんが、ついお茶のお給仕なんぞに出される事があるもんですから、それで分つてきましたよ。何がです。その御気性がですサと君子はどこまでも平気なり。花子はいよいよ胸躍らせソーといひたるまま、何事をか深く考へゐる様子なり。君子は少しもそれに気注かず、何ですとネーあの方も奥様のお在りなすつた方ですとネー、花子は耳に入りしや否や、無言のままに打沈めり。どういふ御都合で御離縁になつたのでしやう、あなたそれ御存知なのと君子は再び花子に問へど、花子は依然無言なり。君子は更に詞を継ぎて、エあなた御存知でしやう、エとしばしばいはれて心付きしにぞ、花子はものいはむもうるさければにや、存じませんよ私はと素気なくのみいひ放ちぬ。ソー、でもあなた御存知の筈じやアありませんかと、お兄様のお友達だと、いつか仰しやつたじやありませんかと、これはまた是非聞きたげなるがいよいよ訝しく、さてはそれかと思へば思ふほど、唇重く頭痛みて、今は得堪ぬまでになりしかば、花子は右の手にて額を押へながら、傍に在りし机の上に肱かけぬ。君子はそれにて始めて会得したらむやうに、ヲヤあなたお加減がお悪いの、道理で今日は、何だか変だと思ひましたよ。それではまたゆつくり伺ふ事にして、今日はもうお暇といたしませう。実はネ、今日はあなたによく伺つた上で、御相談したい事があつて、上つたのですけれど、お加減が悪くてはいけません。どうぞ直ぐお横におなりなさいまし、いづれまたちかぢかに伺ひますからと口には他日を契れども、心はいつもの如く花子が引留めて、いいから話していらつしやいよといひくるるならむと思ひの外、これはいかなる事やらむ、花子は少しも留めむとはせず。ソーせつかくいらしつたのにネーと義理にも搆ひませぬとはいはず、我から立ちて玄関へ送り出るもそこそこに、君子が下駄穿き終りし頃には、はやバダバダと奥の方へ駈け込みし不思議に、君子は驚きて振り向きぬ。

 甲田は最早時機到来、次回君子の家をおとづれたる時には、いかにもして好機を見出し、少しく我が意中を傾潟してみむ。おそらく掌中の玉たるを失はざらむ。しかして君子の意思一度我に向へるを。隠微の間にだも認むるを得なば、さてこそ全くしめたものなり。多日の焦思を癒すもはやちかちか。その上の手筈はかくかくと、君子を連れ出す場所さへに予定しつ、婦人の操を弄ぶを、この上なき能と心得る色の餓鬼こそ恐ろしき。折しも花子の方より、是非是非急に御目にかかり、御はなし申し度き事あれば、直ぐにも御返事下されたしとの郵書来りぬ。君子の事に※[#「てへん+勾」、第3水準1−84−72]《かか》らひてよりは、忘るるともなく忘れゐしなれど、もとよりこれもいな舟の、いなにはあらず思へるにて、捨小舟としたる心にもあらず。ただ流れゆく水性の、移る心に任せつつ、かしこの花ここの月よと浮かるるなれば、かくいはれてはこれもまた憎からず。さては忙中の一閑これもまた妙ならむ。かれといひこれといひ、いづれも絶世の佳人なるを、色男には誰がなると、独り顎《あご》を撫《な》でゐたり。

   その七

 春は花いざ見にごんせ東山、それは西なる京なれど、東の京の花もまた、東叡山にしくものなければ、弥生の春の花見時、雲か霞と見紛ふは、花のみならで人もまた尊き卑しき差別なく、老も若きも打ち連れて、衣香扇影ざんざめきたる花の下、汁も膾も桜とて、舌鼓うつものあれば、瓢の底を叩くもあり。花さへ酒の香に酔ひて、いとど色増す
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