調子にて。
『どうだ。なかなかよく勉強してゐるやうだね。つい始終|忙《せわ》しいもんだから、聞きもしないが、御親父は御壮健かね』
人も人、言も言。一郎は覚えず熱涙一滴。
『はい達者で居るやうでござります』
『さうか、それは結構だ。選挙の際には、随分卑劣の手段が行はれるからね』
先生は何をか、憶ひ出て感慨一番したまひし後。
『それで何か、君は何をやるつもりなんだ』
『はい、いろいろな妄想も起こつて参りますが、ともかく父を引受けねばならぬ身躰でござりますから。第一着に弁護士で地歩を固め、その以上の事は、後に決定致したい考へです』
『なるほどそれも宜しい。空論空産では仕方がないからね。しかし君の志望は、別にあるといふ事は知つとるから。順序を追つて、充分に遣るが宜しい。出来るだけの保護は必ず与へるから』
対話はこれに過ぎざりしも、言々急所を刺したればか。一郎はこの一二言に、百万の味方を得たるよりも心強く。さてこそ我を知る人は、この先生の外にはあらじ。我はこの知遇に対しても、将来必ず為すところあらざるべからずと、深くも心に刻み込みぬ。
その十
それよりいくばくの月と日は、一郎が境遇にも変化を与へず。心裡も平和に過ぎ去りしに。俄然政海の、光景は一変して、頼みきつたる民党の、かれもこれも猟官沙汰。前車の覆轍、後車なる、開明党の殷鑑とはならで、因果はめぐる小車を、我も己れもと轢らせつ。人の失意を我が得意、出世の門に急ぐなる、その失躰は前車といづれ。誰も鴉の雌雄は知らねど、鷺を鴉と争はれぬ、暗き心根世に知れて、絶えぬ噂はこれ一ツ。駿馬の骨のそれならぬ、国士の果てはさても重宝。死しても皮を留むなる、獣の皮は幾十倍、高値《たか》く売れても、人といふ、その価の下がるが気の毒と。世間の評判朝夕に、一郎が耳にも伝はれど。ともすれば熱血迸らむとする政談に耳傾くるは、今の青年時代にあらじ。父が出獄もほど近きにと。わざと冷淡を装ひて、素知らぬ顔の一郎が、聞き捨てならぬ一報の、またもや耳辺に轟き来ぬ。そは一郎が唯一無二の師と頼みて、その高節を仰ぎ、その徳量を慕ふなる国野為也の。近日挙げられて某省の次官となるべく、またこれを承諾せしといふ一報なり。
さあれ風声鶴涙に驚きて、先生の清操を疑ふは、知遇に負《そむ》くの罪大なりと。わざわざ小田が耳語を一笑に付し去りし一郎も。さすがに全くは忘
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