さあれ一応二応の、敗れには屈せぬ一郎、なほも数年の鉄案を、確かむる大敵ござんなれと。冷えし眼《まなこ》に水せき込みて、覗へば覗ふほど。我に利なきの戦いは、持長守久の外なしと。疑ひの臍《ほぞ》さし堅めて、手を拱《こまね》き眼をつぶ[#「つぶ」に傍点]りたる一郎の。果ては魔力かよしさらば、彼いかんに人情の奥を究め、人心の弱点に投じて、かくも巧みに人を籠絡するとても、我こそはその化けの皮、引剥いてくれむづと。ここにも思ひを潜めたれど、先生は居常平々淡々、方畧も術数も、影の捉ふべきものだになき、無味一様の研究に倦みて。幾十日の后不満ながらも、得たる成績取調べしに。その魔力ぞと思しきは、無私公平、己れを捨てて他を愛する、高潔の思想に外ならざりき。ここに至りて頓悟したる一郎、よしこれとても最巧の、利己てふものにあらばあれ。その名正しくその事美なり、我この人に師事せざるべからずと。それよりはその始め、一種異様の、強項漢なりし一郎の、変れば変る変りかた、為也が前には骨なく我なく、ただこれ感激てふ熱血の通ふ、一塊肉と、なり果てしぞ、不可思議なる。
 それよりは一郎、人の平和に暇の出来、一意専念法律の、書冊にのみ親しみて、己が前途にのみ急ぐを。同門の書生といふよりは、壮士輩の嘲りて、
『おい大村、また書物と首ツ引かひ。よせよせそんな馬鹿な真似は。今からゑんやらやつと漕付けたところで何だい。仕入の弁護士か、志願して、判事に登用されたところで、奏任の最下級じやないか。先生の幕下に属しながら、そんな小さな胆玉でどうなるか。せめて政談演説の、下稽古でもやつてみろい。舌三寸で天下を、動かす事が出来るんだ。僕なんぞは書物といつたら、いつから見ないか知れやしない。それでも政党内閣の代になつて、先生が外務大臣にでもなりや、僕はさしづめ英仏の、公使位には登用されるんだ、その内にやあまたたびたび交迭があつて、いつかは内閣の椅子も、譲られうといふもんだ。君もせつかく書物が好きなら、せめて国際法でも調べておいて、秘書官位にや遣つて貰ふやうにするがいい。ハハハハ』
と面搆へだけは先生に譲らぬ、虎髯撫で下ろして冷笑するは。この家に古参の壮士の都督殿なり。
 小田はさすが忠実に、
『君実に悪い事はいはなひから、少しは周囲の、光景といふ事に気を注けてくれたまへ。先生がかうたくさんに書生を置いとくのは、何も門下から学
前へ 次へ
全25ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
清水 紫琴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング