より、これをさへ押収しつ、絶えてお糸に示さざれば、お糸は少しもこれを知らず。されどこなたには未練なき庄太郎に、これまで女の道といふ一すじにのみ繋がれ居たるなれば、この上は父の斗《はか》らひに任せて、我はいづれにもあれ、外へは嫁付《とつ》かず、一生独身にてくらし身を清らにさへ持ちたらましかばとそれのみ心に念じ居たり。
 知らぬ庄太郎は、我より幾通の手紙遣りても、そよとの返事もなきはいよいよ心変わりに極まつたり、いでいでと我が身分を打忘れつ嫉妬に駆られて夜毎にお糸の方へ至り、内の様子を窺ひ居ぬ。
 ある夜重兵衛はお糸と膝を突合はせての話し声、
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 どうも困つたなア庄太郎が男のやうでもない、女房の里から離縁を申し込まれて、酢の蒟蒻《こんにやく》のと離縁をしおらんじや。でもどうしても私は離縁ささねば置かぬ。それもお前に未練の気があればともかくもじやが、嫌な男に操を立てて、それで身を果たさせてはわしの役目が済まぬ。お前は覚悟の上でも世間が私を譏るからの。
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 勝手知りたる裏口の戸に身を忍ばせ居たる庄太郎、障子に映る二人の影の、密接しゐたるさへ快からざりしに、この詞を聞くが否クワツと怒りて身を躍らせ、己れおいぼれ親爺め、思ひ知れと、飛込んでの滅多打ち火鉢を飛ばし鉄瓶を投ぐるに、不意を喰ひたる重兵衛多少の疵負ひてひるむところを、なほ付け入らむとする庄太郎、お糸は親と夫の争ひに、かなたをかばひ、こなたを抑へ、心もわくわく立騒げど、女の身の詮なさに、二人の間に身を入れて、ただ私を私をと、暴れ廻る庄太郎に身をすりつけ、声もかれかれ抱き付きぬ。折しもこの物音聞付けたる店の者一二人、スワヤ盗賊《どろぼう》と怖気立ちたれど、血気の若ものやにはに手頃の棒を携へ来り天晴れ高名するつもりも、相手の庄太郎なるに心得られて、容易くは進みかねたれど、我が主人の危急には代へ難しと、ともかくもして取抑へぬ。この瞬間に庄太郎は気の狂ひてか、前の威勢には似もやらず。茫然としてそこらキヨロキヨロ見廻はしゐたり。
 重兵衛は咄嗟の間、いかでかはそを気付くべき、庄太郎の不始末いかにもいかにも心外に堪へかねいづれにしても娘の聟、荒立てては互えの恥と、胸をさすつて隠便に済まし、召遣ひの者にはそれぞれ口止めして、庄太郎を家に送らせぬ。

 その後岩倉なる癲狂院には、金満家の主人
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