けど、さうなりましたらお暇を戴きませうに。
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 とりとりに膝を進めて囁くを、お糸は力なき手に制して涙を呑み、
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 なんのなんの女子の身は、たとへどんな事があらふとも、嫁入した先で死なねばならぬと、常にお母アさんがおつしやつてたし、またどのよな訳があつて帰つても、いんだト一生出戻りと人に謡はれ、肩身を狭めねばならぬさかひ、私はどこまでも辛抱するつもり、それでも同じ事なら、一日も早う死んだ方が。……
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と末の一句計らず、庄太郎漏れ聞きての驚き大方ならず、もともと可愛さのあまりに出たる事なれば、珍らしく医師をとまでは思ひ立ちたれど、これも年老いてかつは礼の張らぬ漢法医をと、撰りに撰りてやうやくに呼び迎へたるなれば、もとよりその効験《ききめ》とみに見ゆべくもあらず、お糸は日毎に衰へゆくを、さすがにあはれとは見ながらその老医さへ我が留守に来りたりと聞きては、庄太郎安からぬ事に思ひ、それとなくお糸にあたり[#「あたり」に傍点]散らす事もあり。罪なきお駒に言ひ含めて、医師の来りし時には、傍去らせず。お糸のいかなる顔をして、医師の何といひしかといふ事まで、落もなく聞き糺すに、お糸はまたもや一つの苦労を増して、いとどその身を望みなきものに思ひ、我からそれをも断りて、死ぬをのみ待つ心細さを、思ひやる奉公人の、いとしいとしとよそでの噂、伝はり伝はりて事は次第に大きくなり、お糸の父なる重兵衛の耳を、ゆくりなくも驚かせぬ。
 重兵衛は聞き捨てならぬ娘の身の上、いかに嫁に遣つたればとて、命にまではのし[#「のし」に傍点]は付けぬ。それにお糸もお糸じや、おれを義理ある父と隔て、それほどの事なぜ知らせてはくれぬ。ああ水臭い水臭い、それもお糸は承知の上であらふかなれど、里が義理ある中やさかい、よう帰らんのじやと人は噂するわ。よしよしそれではお糸を呼び寄せ、篤と実否を糺した上で、もし実情なら無理にでも、取戻さねば死んだ女房に一分が立たぬと、独り思案の臍《はら》を堅めつ、事に托してお糸を招きぬ。
 幸ひにもこれは庄太郎在宅の時の迎へなりしかば、渋々ながら聞き入れられて、お駒と長吉の二人を目付けに差添へられ。お糸は六角なる里方に帰りぬ。
 さて義父よりかくかくの噂聞き込みたれば、その実否尋ねたしとて呼び寄せたるなりといはれ、お糸はハツと
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