百までには、まだ六十年からの御余裕のある事とて、なかなかの御出精。女といへば醜美に拘らず、ざら撫での性悪を御存じの上でお乗込みありし、奥様もまた曰くつき。そんな顔は少しもなさらねど、三二年前までは、水谷町辺で母娘二人のしがない[#「しがない」に傍点]暮し。味噌漉下げてお使ひ歩行の途中とは、それは人の悪口なるべけれど、どこやらにて、当時幅利きの旦那様に見初められたまひしが、釣合はぬ御縁の緒《いとぐち》。人橋かけての御申込みにも、うかとは乗らぬ女親の細かい采配。萌え出る春に逢はせまするは嬉しけれど、かれかれにならせたまはむ、秋の末が気遣はれましてと。いやではなきお断りの奥の手は、一生見捨てぬといふ誓文沙汰。万一にも浮気らしい事した節には、何時離縁をいひ出らるるとも、一言も申すまじ。またその節には違約金として、幾千の金を差出すべし。もちろん母御の一生は、当方にて引受ける筈、そには月にいくばくの手当と。注文通りの一札を、まんまと首尾よく請取つたる上、やつとの事でお輿入ありしといふ、金箔付きの恋女房様。さすがは多くの女ども、見飽きたまひし旦那の御|鑑識《めがね》ほどありてと、御|容貌《きりやう》には誰も点の打人《うちて》なきに、旦那様も御満足の、その当座こそ二世も三世も、浮気はせまいと心の錠。いささかもつて偽りを仰せられし訳ではなけれど、光明輝く黄金仏も、一年三百六十五日、打通しての開帳には、有難味も失する道理。そろそろ性悪の尻尾押さへられてはそのつどに、たびたびのいざこざもあつた末、うかうか年を過ごしてはと、奥様は口惜し紛れ、こんな時こそ証文が、ものいふ人を頼んで来うと、愛から慾へ廻り舞台。仕掛も大形な弁護士三昧、示談で行かずば表沙汰。愛はどうでも金だけは、取逃さぬ工夫をと、身分の軽い人だけに、お意気込も御大層なる掛合振りに。旦那様も大|吃驚《びつくり》、忘れたではなき証文の、文言を持出されては大変と、これも然るべき弁護士頼み込みての御応対。犬も喰はぬ喧嘩ながら、書いたものがあるだけに、弁護士の歯牙にはかかりて、やつさもつさの談判も、旦那の方がどうやら負気味。離婚といふに未練はなけれど、金輪内雅の名詮自称、やりくり一つで持つ機関《からくり》に、幾千円の穴明けてはと。金に七分の未練ありて、弁護士同士が四角四面の交渉中。こちらは丸う出直せし旦那の智恵|嚢《ぶくろ》、かへつて直接
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