られて梓弓。ひくにひかれぬ瘠我慢、我から心はりつめて、否といはれぬ苦しさを。せめては母様の拒みたまひて、あはれこの事の、そら事となりゆけかしと、危き望みをかけたりしに。我よりそのあらまし告げまつる間もなきに、方様はその夜直ちに母様がりゆきたまひ、いかにして御許しを得たまひけむ、これもあながちに拒みたまはじとの事に、我はいたくも力の抜けて。よしなき事をいひ出でしと、我が軽率《かるはづみ》なりしを悔しかど。その頃は深くも方様を信ずる心より、これも我がいひ甲斐なき心の迷ひとのみ思はれて、我と我が心をのみ叱り懲らしぬ。
後にて聞けば方様の母様には、我の勉めてしかさせまするもののやうにいひたまひしなりとか。それもこれも我はまだ母様に語らひまつる間もなきに、方様は、母子の心変はらぬ内とや。足もとより鳥のたつやうにその翌日は、事も急なる引越し沙汰。彼一条はとまれかくまれ、かねてより、社の近傍に在らでは不都合と。社長の家を借り置きくれたるなれば、我はこれよりそが方へ引移らむ。つひては夫への心遣ひ、当分は里方に居て貰ひたし。その代はり我よりは絶へず慰めにゆくべければ、よしなき事に物は思ひぞ。それもこれもしばしの程ぞ辛抱せよ、二月三月を経る内には、事に托して遠方へ引越し、これまで通り内には迎へ取るべければと。その場を体よくいひ黒めたまひて、支度もそこそこに出で行きたまひたる、あまりの事の早急に、母様の訝しみて駈付けたまひたる頃は、方様の影ははや北神保町の辻に消えて、我はその人の書斎の跡に、正体もなく泣き伏せる時なりき。
されどその翌日より、方様は三日にあげず我が方へ来たまひて、他事なく語らひたまふ様子に。母様も我も少しは心落居しに、こなたの心解くるにつれて、かなたの足は次第に疎く。果てはここよとの便りもなきに、さすがは母様のいたく訝らせたまひて、心利きたるものにその様子探らせたまへつるに。思ひきや方様の方には、疾くより赤手柄の奥様居まして、やがては腹帯《おび》もしたまはむとの噂。さるにても大学へはと聞けば、いなさる様子はなし、今も奥様の父御のものなる会社へ通ひたまふなるが。社長様の恋聟君とて、人々の敬ひ大方ならず。月俸も以前には増したまひたる上、奥様にもお扶持つきて、それはそれは贅沢なおくらし。その上その奥様といふも、お扶持付きには似合はしからぬ御器量よしと、近所の息子もつ親の、さ
前へ
次へ
全20ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
清水 紫琴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング