気一ツなさるでなく、奥様ばかりを蝶花の、離れぬ番ひとあそばすに。一人はどこを飛んでゐる、脳味噌は天辺に、上るほど香に誇る、奥様を追ひ掛けての御機嫌とりは。今度いよいよ二度目の政党内閣に大臣の御顔触れ程でもない、おむづかしい事でござんしよと、姫御前のあられもない、口も叩けば調子も、合はす。ばちはてきめん、我が事も、人の背後《しりへ》に笑ふぞと、知らぬが花の模様もの、着た夫人《おくがた》の集会も、あながち長屋の女房達に、譲らぬが世の習ひなるべし。

   中

 さりとては草臥《くたびれ》し。党務だけも忙しいこの身体を、内閣へひつぱり出されしその后は、夜ともいはぬ来客に、ろくろく休む隙はない。それもさるべき要事なれば格別なれど。名さへ覚えぬ地方の党員までが、続々人材の登録望みには恐れるから。やうやく不在と切上げても来たなれば、今宵は久し振り、寛ろげるでもあらうかと、奥まりたる書斎へ、今しも遷坐の身をゆつたりと、縁側近く端居して、しづかに髯を撫で上げたるは、かの今尾春衛なり。年齢は四十歳を、迫らぬほどの眉根濃く、眼光の烱々《けいけい》たるものあるにも、それとは著き風采の、温雅にもまた気高し。これを迎えてさぞやさぞ、お疲れあそばしたでござんしよにと、三尺去つて、良人の傍、先づ何よりと、団扇の風、慰め顔に侍るは、これぞ噂のその人ならむ。今日結ひたての大丸髷も、うつむきめの艶やかに、縞絽の浴衣は、すらりと肩を流れし恰好、何としてこれが女教師上がりの夫人《おくさま》と思はるべき。笑みも溢《こぼ》るる、青葉の雫、あれ御覧あそばしませ。人工の夕立ほど、水打ちました三蔵が大働き。螢が飛んでゐるやうで、築山のあたりが、いつそう奇麗でござんする。官邸の月と御題をあそばすも、御一興でござんせう。花やお湯をと取寄せて、煎茶手前もしとやかに、滴らす玉露のそれよりも、香り床しきこの人をそもやそも誰がすまぬお顔と名づけけむ。独り居てこそもの思へ、思へる事のありぞとは、良人《つま》に知られじ、知らさじと、思ひかねては、墜ちも来る、涙を受けて、掌は白粉も溶く薄化粧。紅も良人《おつと》へ勤めぞと、物憂さ隠す身嗜み。瞼ばかりは、ほんのりと、霞に匂ふ遠山の、桜色をばそのままの、腥燕脂《しようゑんじ》には代用して、粧ひ凝らす月と日も、積もれば人の追々に、忘るるものと思ひきや。良人の出世を見るにつけ、我が身の里の謡はるる、それもよけれど、今頃は、どこにどうしてゐたまふとも、知らぬ父上なつかしや。たとへばどこの果てとても、ここにかくての一言を、我一人には夢になり、御沙汰したまふものならば、よしや来るなのお詞を守るにしても、朝夕を、少しは慰む方あらむ。子細のあれば、身を隠す、我は現世になきものと、ひとへに良人に冊《かしづ》けよ。我は元来|強情《すね》ものの、人交はりは好かぬ身を、心にもなき大都の風に、顔|曝《さら》せしは、誰が為ぞ。日本一の花聟に、添わせむまでの父なりし。今尾春衛の妻はあれ、この親爺の娘とてはなき、身の上の気散じは、今より后の我世界を、破れ庇《ひさし》の月に嘯《うそぶ》き、菜の花に、笑ふて暮さむ可笑《おかし》さよ。忘れても世の中に、血属《ちすじ》は一人の父にさへ、離れたる身の、宿業を謹みて、春衛殿に、愛想|竭《つ》かさるるな。我をいづこと、求めむ心の出でなむには、それだけ多くを、良人に尽くせ。尽くして尽きし百年の、寿命は今尾の土となれ。土となりて、魂のかの世に逢はむその時にぞ、今日の子細は語るべし。それまでは、一ツの秘密を持てる身の、よしや天地に耻なきも、世に辱《はじ》あらむそれよりは、身の秘密をば、社会の裡面に葬りて、悠々の天命をしも楽しむべきを。なまじひなる孝念に、我が所在を探らむは。我が志を傷つけて、我が耻辱を世人の前に、曝露するの所為たるなり。我への不孝、良人への、不貞この上あるべからず。謹んで秘密の匣《はこ》たる我が行衛《ゆくゑ》に、生涯手を触るまじきものなりと。世にも不思議の御教訓を、寄せたまひつるその后は、御|音信《おとづれ》も、幾月を、絶入りてこそ歎けども、これに濡れたる袖ぞとは、良人《つま》の御眼に掛けられぬ、御手紙は、生きての記念《かたみ》、死ぬまでは、何とも知らぬ御秘密のありと思へばなほ更に、御身の上の気遣はしく。ふり残されし身一ツに、雨をも、雪をも、御案じ申し上げれども。かくと明かせぬ切なさは、世に隔てなく待遇《もてな》したまふ、良人《つま》へ我から心の関。父の為には隠すをば、孝と思へば、貞ならぬ、身はさながらに大罪を、冒せるものの心地して。優しきお詞聞く毎に、身を切らるるより、なほ辛きを、じつと我慢の忍耐《しんぼう》強く。我一人して御|行衛《ゆくえ》を、探りてもみるそれだけは、よしお詞に背いてもと。思ふ甲斐なき手がかりも、慰めかねし胸に
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