一書生としての、栄誉は更に大なる日に、そなたと結婚したならば、よし大臣が総理でも、そなたと乃公の関係に、何の変はりを見る事ぞ。そなたも春衛の妻として、世に立つからは、ぐつと気を大きくして、自ら許すところを守り、あくまで世俗に反抗して。かの閨閥に依頼する無腸男子、持参にする横着婦人、この二ツをば、社会から駆逐する、大決心は持てない事か。あはは、やはり柳は柳のそなたに、無理な重荷は勧めまい。だがせめて自分だけなりと、つまらぬ事を気に掛けぬ、自信は持つて貰ひたいと、噛んで含めし言の葉に、清子は何の答《いらへ》はなくて、熱き涙を夫の膝に、月も雲間を漏れ出でて、二人が中のいつまでも、かかれかしとぞ輝きぬ。春衛は妻が掛念の種子の、解けても見えしを喜びて。分つたらばそれでよい。分らぬ筈のそなたでなけれど、さういふ事が気に掛かるも、つまりは身体の虚弱《よわい》から、ともかく医師に掛かるがよい。くどくいふではなけれども。全体この乃公は、最初秋田を里にといふ事から、はなはだ不本意であつたのなれど。そなたの父御が是非ともに、誰かの養女分にもせずは、自分からは縁付けぬと、たつての主張に、余儀なくも、その意に任せた一条は、そなたも知つてゐる通り。いや父御といへば、その後の様子をとんと聞かずにゐたが、今だに便りはない事か。これも気に掛からぬではなけれども、内憂外患さうさうは届かぬから、内事はそなたに任せておいたが、これは不思議に気にせぬなと。ついでながらにいひたる詞の、清子が胸にはひつしとばかり。感謝に溶けし塊の、再び込み上げ来るをば、じつと押さえて何気なく。その事なれば、かならずかならず、お案じなされて下さりまするな。かねても申し上げます通り、一体が交際《つきあひ》嫌ひの偏屈もの。親一人|娘《こ》一人の、私でさへ稚いから、傍に置くがうるさいとて、学校へ預けましたその後は、日曜にも帰りますれば不機嫌の叱られるより、まだましかと、懐かしさを堪らえてゐれば、三日にあげぬ慈愛の品、送つてもくれますれば、稀には来てもくれまする、それ程可愛い私さへ、寄せ付けませぬ変はりもの。廿年から東京に住居致しておりながら、交際とて、人間が、互ひに嘘をつきあいの、それが何になる事ぞと。友人《ともだち》一人ないを自慢の気質には、私が身の落着きを、安心の首途《かどで》にして。浮世の外の隠れ家に、身を避けましたでござんせう。よしそれとても、人間の、思ひ出しては、可愛さを、訪ねてもくれましようと。父の気質を知る身には、安心致しておりまする。ついした愚痴から、お胸を痛め、御疲れの上の、御鬱陶を、麦酒《びーる》にでも致しましようかと。急にさゑさゑさらさらと、延ばす右手の袖軽く、喚鈴《よびりん》に指頭《ゆびさき》の、かかりける機《をり》もよし。書生の次間《つぎ》に畏りて、奥様にと差出す郵書。見れば名宛の我にはあれど、覚えなき手跡にて出処は、実父の名のありありと記されたり。あまりの意外に顫ふ手を紛らはさむとや、身を起こし。あのね、あちらへ行つたらば、花に来てといひかけて。あ好いよ、私が行つて吩咐《いひつけ》ましよう、貴夫人振るも、可笑《おかし》なもの、ねえあなた少しお待ちあそばしてと。その場を体よく、夫の視線避けけるも、書中《なか》の子細の危《あやぶ》まるるを、先づ秘かにと思へるなるべし。
下の一
七条の停車場《すてーしよん》といへば、新橋梅田の、それ程にこそ雑踏せざれ。四時の遊客絶え間なき、京は日本の公園なれや。諸国の人が乗降も、半ばは花に紅葉の客、夏は河原の夕涼み、流るる水の一滴が、さても東都の土一升、千万金の凉しさに、東の汗を洗はむと、西の都に来る人の、急がぬ旅も、急行の列車は乗せて運ぶ世の、一味平等、改札の口には上下貴賤なく、赤白青のいろいろが、先を争ふその中に。一人後れし丸髷の、際立つ風姿《なりふり》眼を注けて、これぞ好き客有難しと、群がる車夫が口々に、奥さんどうどす、お乗りやす、御勝手まで行きまひよかと。先づ京音の悠長を、つと避けて。茶屋が床几に腰掛くれば、女主の案内、特別に、奥座敷へと待遇すも煩はしく。なに急ぐんだから、ここで好いのよ、それよりか、これで手荷物を受取つて、人力車《くるま》を直ぐにといつて下さい。へいあのお人力車、どこまでと申しませう。はあたしか、柳原庄、銭坐村といふんだよ。へいあの柳原、それに違ひはござりませぬかと、恠訝な顔に念押せる、これも京の名物かと、走らぬ人力車促がして、ここ銭坐村といふを見れば。右も左も小さき家の、屋根には下駄の花緒を乾し、泥濘《ぬか》りたる、道を跣足《はだし》の子供らは、揃ひも揃ひし、瘡痂《かさぶた》頭、見るからに汚なげなるが、人珍らしく集ひ来て、人力車の前後に、囃し立つるはさてもあれ、この二三町を過ぎ行くほどは、一種の臭気身
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