のないこの身体。親も別に拵らえて、河井といふ名の出ぬやうにしてあるからは、すつぱりと役済みのこの親爺。親とはいはぬ親ながら、近所に居るはそなたの妨げ。どふぞ世間の人の眼も、耳も届かぬ処へと、思へば急に故郷の懐かしさはまた格別。乞食の三日が忘られぬ人の情《こころ》の不思議さは、そなたを此村《ここ》に置くまいと、他国に苦労したおれが。自分ばかりはこの村の土となりたさ、多からぬ余命を隠れて住むつもりが。頭隠して尻隠さぬ、不念が基因《もと》のこの失策《しくじり》を、何とそなたに謝罪《あやま》らう。かうと知つたら、かねてより、身の素性をばそなたにも打明けておいたなら、その心得もあつたもの。知らせては一生を、心に咎めて暮さうかと、生中の可愛さを、残しておいたが、失策の種子となつたか残念や。もうこの上は詮方がない。たとへ嘉平はいはずとも、物事万事小細工に、包めるものと思ふたは、おれの誤り、どこぞから、世間へぱつとしてからは、聟殿がなほ気の毒。親爺一人は怨まれまい。父娘二人が同腹で、これまで乃公を欺したかと、痛まぬ腹を探られては、この后のそなたが心も済むまい。思ひ切つて今の間に、そつと離縁を取つて来い。それともにも聟殿が、男を立てて離縁せぬ、新平でも構はぬといはるるならば、それこそ重畳。この親爺はもとより亡いものと思ひ捨て、百千倍も身を責めて、並の女子が貞女には、万倍貞女の手本になり、新平の娘が汚れたか、見ん事世間に見てもらへ。今の思案はこの二ツ。さ、一刻を後れては、一人の噂を増す道理。嘉平人力車のある処まで、荷物を持つて送つてやれと。病苦をものの数ともせぬ、老の一轍金鉄の詞に籠る慈愛の数。さりとてはかくまでも、我を思召すぞとも、知らぬ心の子心に、今も今親を怨んだ勿体なさ。父様許して下さりませ。お道理はお道理でも、これ程のお煩ひ、親を見捨てて帰るのが、まこと貞女の道ならば、孝行はどの身体でいたしませう。かういふ身分が気に入らず、このままに御介抱申し上げたが、済まぬと夫が申すなら、それは先方から違えまする、道はこちらの知らぬ事。よも春衛とてそれ程の、没理漢《わからずや》ではござんすまい。幸ひ昨日のお手紙を、見せましたその時にも、乃公は行かれぬ身体だけ、そなた二倍の御介抱を進ぜてくれ。誰なりとも手助けに、一人二人は召連れてと、心添えてもくれましたれど。かねてからの御教訓、御秘密といふ中
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