宜しさうなお寐姿、この分ならば今の間に、御全快はあそばしませふ。先づ何分にも、お心を寛やかにあそばすが、何よりのお薬と。見るからに陥ち凹みし、頬はかうでもなかりしに、さりとてはお痿《やつ》れと。横顔ながら、身の痩せも、思ひ知らるる悲しさを。何事なげにいひなして、力付くるも、孝行の手始めぞとや、膝すり寄せ、脊の辺りを撫で掛かる、手を病人は払ひ退け、滅相な滅相な、どこのお女中様かは知らぬが、前刻《さつき》から聞いてゐれば、父御様にも仰しやるやうなお見舞は、なんとももつて合点が行かぬ。御風体なら、御人品、新平の親爺が娘に持つやうな、お人柄でもないものを、どう門違えなされたか。御身分にも※[#「てへん+勾」、第3水準1−84−72]はる事、早速お帰り下されい。な、なるほどこの親爺、娘一人持つた覚えは確かにござる。でもそれは、子細あつて、父子の縁切れ、父でない、娘でない一札が渡してある筈。どう狼狽《うろたえ》て、この様な処へ親を尋ねて来る、馬鹿ものではござらぬからの。これには何ぞの行違ひ。病気の報告があつたとは、いつさい合点が行かぬ事。恐らく誰かの悪戯に、手紙を出した事かは知らぬが。隠すより顕はるる、お前様の住所を人に知られたは、一つの災難、もうこれで、緒《いとぐち》は出来たにせよ、好んで秘密を破るでもなからう。今の間ならば、門違えでも事は済む。世間へぱつとせぬ内に、さ早う去んで下され、帰つて下され。縁は切つても、子の味知つたこの親父、よそ外の娘御でも、気にかかる。新平の子と間違えられては、お前も立つまい、お前様の御亭主はなお立つまい、それが父御の本懐か。門違えでも一言の、見舞は受けたこの親爺、養生もする、死にもせぬ、安心して帰らつしやい。これ程いふに、もじもじして、まだ立たれぬか、帰れぬか、さてさて鈍な女中じやの。ええわそれではこの親爺、叶はぬ腕にも立たせてみせる、引張り出すが承知かのと。危ふき足もとよろよろと、立ち掛けて身をばたり、あはやといたはる女は涙、親爺も残念共泣きの、涙はさすが眼に充ちて、口ばかりは強さうに、帰れ帰れと続けたり。
折から門の戸引開けて、入来る男は羽織がけ、鄙しからぬ風躰は装へど。どうやら爛れ眼、皮のもの、煙草入れを手に提げて、どかりとばかり胡坐《あぐら》かき。太一怒るな了簡せい、麁相はおれじや謝罪《あやま》るわ。まあ女中も落着いて、せつかく来たも
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