なぜに見えぬぞ。お邸が、せめて湯島の丘ならば、ここから名残惜しめうもの。上野の森に、用のない、松は見えても、お邸の、お庭の松がなぜ見えぬと。なくなく行けば、畏《かしこ》かる、神の御前の大鳥居。ここは恐れの、横道へ、たどり入るこそ不便なる。

   第十回

 その翌朝未明、太田が家にては、下女の報告《しらせ》に、夫婦が驚き『なにお園様が殺されてござるといふのか。馬鹿め、貴様はどうしてゐた』と。叱りながらも半信半疑。見れば真実や、縁側の、雨戸も障子も開け放し。足の跡こそ、付いて居れ。死骸は立派な覚悟の死。襟|寛《くつろ》げて、喉笛に、柄《つか》までぐつと突込んだ、剃刀はお園がもの。これが自殺でなからふかと。まだここのみは、明けやらぬ、昨宵のままの燈火《あかり》、掻き立て見れば、口の内、何やら含んだものがある。検死の邪魔にならふか知らぬが、自殺他殺も知らいでは、深井様へのいひわけが、済まぬ済まぬの一心に。口押し破つて、引出せば、子細は何やら、白紙を、くるくる巻いたその中から、からりと見慣れぬ、指輪が一ツ。これはどうじやと呆れて立つ。夫婦の前へ。あたふたと、下女が持て来る、文二通。これが私の寝床の下に。今までちつとも知らなんだを、またも叱つて下さるなと。もぢもぢするを、引つたくり。見れば、一ツは様参る。深井の旦那へ、園よりの、外には太田夫婦宛。当つて砕けた白玉が、何ぞと人の知らぬ間に。露と消えたる身の果てを。金剛石《ダイヤモンド》の指輪と共に、とりとり人の噂しぬ。(『文芸倶楽部』一八九七年二月)



底本:「紫琴全集 全一巻」草土文化
   1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
初出:「文芸倶楽部」
   1897(明治30)年2月
※疑問箇所の確認にあたっては、「明治文學全集 81 明治女流文學集(一)」筑摩書房、1966(昭和41)年8月10日発行を参照しました。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2004年9月20日作成
2005年10月31日修正
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