や、死ぬるといへば、奥様も、私がお邸出たからは、よも御自害はなさるまい。それに私が死んだらば、今宵の仕儀を御存じなき、旦那様のお思召。あれ程までにいひおいたに、分らぬ女子とおさげすみ。不義の罰よと、奥様の、お笑ひよりは、まだつらい。とはいふものの、もしひよつと奥様のお身に凶事があらば、さしづめ私は主殺し。手は下さねど、片時も、生きてゐられる身体でないに。どの顔下げて、おめおめと、旦那にお目に掛かれやう。それを思へば、この期に及んで、迷ふはやはりこの身の愚痴。どの道死ぬるが勝であろと。覚悟は極めても、どこやらに、この世の名残、西へ行く。月を眺めて、しよんぼりと。どこで死なふの心の迷ひは、それもあんまり気短かの、心の乱れと縺《もつ》れ合ひ。縺れ縺るる生き死にの、途は二ツを、一筋に、定めかねたる、足もとの、運びに眼を注け、気を配り、様子を覗ふ一人の男子。もうよい時分と物影を、歩み出でむとするところへ。飯田河岸の方より、威勢よく、駈け来りたる車上の紳士。何心なく女の顔、見るより車夫に声かけて、小戻りさするに、はあはツと、女は驚き透かし見て『あツ旦那様』といふままに。はつと思ひし気のはづみ。我を忘れて、河中へ、ざんぶとばかり飛び込みたり。

   第四回

 宮柱、太しく立てて、東洋を、鎮護の神と仰がるる、招魂社の片辺りに。小綺麗な黒板塀。主翁《あるじ》は太田彦平とて、程遠からぬ役所の勤め。腰弁当の境涯ながら。その実借家の四五軒ありて、夫婦が老を養ふに、事欠くべくはあらねども。実子なき身は、なまじひの、養子に苦労買はむより。金銭を孫とも子とも視て、気楽に暮そじやあるまいか、なう婆さんとの相談も、物|和《やわ》らかなる気性とて。家賃の収入は、月々に、銀行預けと、定めても。どこやら饒《ゆた》かな、生活《くらし》向き、一人二人の客人は、夜毎に絶えぬ、囲碁の友。夜の更けるのも珍らしからねば。慣れたものはこれでもよけれど。お園様はさぞやさぞ、御迷惑であらうもの。ちようど幸ひ、隣の貸家。あれを当分、御用に立てて、お食はこつちから運ばせて、夜分は、三を泊りに上げれば、万事お気楽お気儘で、御保養にならふにと。主翁が注意、行届いたる待遇《もてなし》振り。この日曜を幸ひに、拭き掃きもまあ一順、すむにはこれが第一肝要のお道具、三よお火鉢持つて行け、婆さまは茶道具揃えて上げましや、菓子器に、羊羹忘れまいと、己れは手づから花瓶を据えて。秋の名残の、菊一りん。ひちりんも御入用なら、何時なりと持たせましよ。その外何なり、かなりなものは、たくさんにござりまする。御遠慮なふ仰せられい。お淋しければ、この切戸が、これこの通り開きまする。そこがすぐに手前の前栽、縁側へは、一|跨《また》ぎでござりまする。ここから自由にお出這入り、どちらなりとも、お好きな方にお住居なされ。やれやれこれでお座敷も、ちよつと出来たと申すもの。これからは、決して決して、お気遣ひなされますな。ここがすなはち、あなたのお家、他人の家ではござりませぬ。家いつぱいに、おみ足も、お気もお延ばし下されいと。己れも延びた髯撫でて、帰る翁主と入れ違え。婆さまといふは気の毒な、五十二三の若年寄。良人ある身はこの年でも、なほざりにせぬ、身嗜《みだしな》み。形ばかりの丸髷も、御祝儀までの心かや。おめで鯛の焼もの膳『外には何もござりませねど。皆々《みんな》あちらでお相伴、まづ召上がれ』とさし出す『あれまあ、それでは恐れいりまする。いつまでも其様《そんな》に、お客待遇して戴いては、気が痛んでなりませぬ。それよりは御勝手で、お手伝ひなと致したが』と。お園の辞退を引取りて『またしてもそんな事、おむづかしい御挨拶は、もうもう止しになされませ。先夜の今日日《けふび》、お身体も、まだすつきりとはなさるまい。お気遣ひは何よりお毒、当分お任せなされませ。深井様には、いろいろと、御恩に預かる私夫婦。役に立たずの老人が、未だに御用勤まりまするも、やはりお庇陰《かげ》と申すもの。何御遠慮に及びましよ。かうしてお世話致すからは、失礼ながら、私どもは、他人様とは思ひませぬ。娘を一人設けたやうで、どんなに嬉しふござりませう。それにあなたの母御《おやご》様は、継《まま》しい中のあなた様を、この上もないお憎しみ。死なふとまでの御覚悟も、どふやらそんな御事からと、あの晩深井様からあらましは、承つてをりまする。及ばずながらこの後は、私夫婦と、申すほどのお役には立ちませねど。歴然《れつき》としたお従兄の、深井様もいらせられまする。必ず必ず御苦労はあそばしますな。ほほ私とした事が、ついお話に身が入りて、御飯のお邪魔をいたしました。さあさあ早う召上がれ。そして御飯が済みましたらば、お髪《ぐし》をお上げなされませぬか。お湯も沸《わか》してござりまする。あなたのお年齢
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