にして、あんまり心配せぬが宜しいと、いはるる時の悲しさ。泣くまじとは思へど、平常《ふだん》気の知れぬ夫の傍に居て、口さがなき下婢《げじよ》の手前などに気をかね、一途に気を張詰めたる身ですから、たまたま嬉しき母の詞《ことば》を聞いてはしみじみ母の慈愛《なさけ》が身に徹して、イイエ、なに、心配などはござりませぬと、口には立派にいひ放ちましても、あいにくに滝なす涙は、私よりも正直に、母に誠を告げました。私はそを見せじとて、ソーツと、手巾《ハンカチーフ》もて目を拭ひ、そしらぬ顔で母の方を見ますれば、母は私より先に、はや眼の縁を真赤にして、をりました。かかる事がたび重なり、母は終《つい》に、それ故と申すでもござりますまい? なれども、平常《つね》から病身の身とて、遂に全く床に就く事となりまして、程なく私の事をいひいひはかなくも、私が十九の秋|朝《あした》の露と消へ失せました。その時の私の心の裏《うち》、申すもなかなか愚かな事でござりました。最初は、母も私の身を早く片付けて安心せんと思ひ、私も母があまりに心配致しますから、母の心も休めたいと、すすまぬ結婚を致しましたが、その結婚が仇となりて、母の命を縮めたかと思ひますれば、胸も張裂ける様でござりました。なれども、私はこれも皆私の行届かぬ故と、観念致しまして、叶はぬまでもと、なほも不遇悲惨の裏に二年の月日を送りました。実に反動と申すものは恐ろしいもので、私はこの結婚後の二三年間において、いつとはなく、非常に女子の為に慷慨《こうがい》する身となりました。もつともその頃は、てうど女権論の勃興致しかかつた時で、不幸悲惨は決して女子の天命でないといふ説が、ようやく日本の社会に顕《あら》はれて参りました。私も平素好めることとて、家事紛雑の傍らにも、ときどきの新刊書籍、女子に関する雑誌などは、絶へず座右を離さず閲覧しておりましたものですから、いつとはなく、泰西の女権論が、私の脳底に徹しまして、何でも日本の婦人も、今少し天賦の幸福を完《まつた》ふする様にならねばならぬと、いふ考へが起こつて参りました。それ故、一つは自分の憂鬱を慰むる為、一つは世間幾多の婦人達の不幸を救はむとの望みにて、時々こむずかしきことなどを申す身となりました。さてそうなつてみると私の覚悟がよほど変わつて参りました。それまでは支那流儀に、ただ何事も忍んでさへゐればよい、自分の
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