、其の立ち上った瞬間、隣室の子供が不図泣き歇《や》んだのであります。乳房を啣《ふく》ませてやらなければ絶対に泣き歇まぬ守が、其の場合急に静かになったので、何気無く好奇心を覚えて境目の襖を二尺程開き寝床を覗いたのであります。すると、閣下よ、其の部屋には既に妻が居て長々と寝そべり乍ら私に背を向けて守に乳を与えて居るではありませんか? 即ち傍らに立ち上った妻ともう一人隣室の妻とを、瞬時ではありましたが同時に目撃した訳であります。おや、変だぞ、と気付いた時には、既にもう一人の妻は消えて、消えたと同時に守は再び火のつく如く泣き立てたのであります。私以外に、無心の守迄がもう一人の母[#「もう一人の母」に傍点]を見たに相違ありません。妻も自分の分身を発見した筈で有りまして、額に幾条かの冷汗を垂らし乍ら急いで守に乳房を啣ませる動作に移って了いましたので、其の事件は其の儘私の幻覚として忘れ去って了いました。妻の真蒼に成った顔色を今でも思い浮べる事が出来ます。閣下よ、妻は正しく不思議な病気、――若しそれが病気と呼び得るならば、――ドッペルゲエンゲルの重篤患者に相違ありません。嗚呼、閣下は又しても私を嘲笑して居られますね。小説家である私が別個の新聞記事を土台として、以上の如き実話風な物語を創り出したのであろうと? 私は真剣であります。其の為私の神経組織は病的な程、feeble《フィブル》 に成って居ります。斯う云う私を嘲笑なさる事は一種の不徳で有り侮辱で有り、私は閣下に決闘を申し込まねばなりません。
 偖、閣下よ、以上で私の陳情の目的が何であるか御判りになった事と存じます。よしんばそれが二人の妻の片方で有ろうとも、私の殺人罪には変わりは御座いません。即刻私を召喚して下さい、其の用意は出来て居ります。狂人の名を付せられる位ならば、寧ろ私は死刑を選びます。妻の同性愛の相手島慶子と云う踊児をも、もっと厳重に訊問したならば、或いは此の事件は解決を見るかも知れません。慶子は己が所業に恐怖を感じて居た由では有りませぬか? 如何な秘密を、彼女は持っているのでありましょう? 殴打後私が立ち去ってから妻の屍体が紛失する迄の、慶子の行為こそ問題ではありませんか? 或いは今だに房枝は生きて居て、何処かに隠匿されて居るのかも知れません。それには茶屋業主人成田作蔵と云う男が共謀して居るかも知れぬではありませんか?
前へ 次へ
全23ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
西尾 正 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング