れば、それでは、あの、誰一人と人間のいない、造りものの、鐘の中で、そうした原因を作る誰人《たれ》がいたのであろうか――加害者は誰であろう――と、声をおひそめになるでございましょう。
「それが、さっぱり、見当もつきませぬ」
 と、お答えいたしますと、
「それでは、変化の隈《くま》どりと、扮装の後見をしたのは誰であろう。その人達が、第一に嫌疑をうけねばならないのではあるまいか」
 ――と、重ねて、仰せになるでございましょう。しかし、あの扮装には、後見は一人もついていなかったのでございます。

        |○|[#「|○|」は縦中横]

 ご存じになりますように、娘道成寺の所作事で、白拍子の鐘入りになりますと、その役者は、蛇体に扮装いたしますためと、顔の隈をとりますために、すっぽん[#「すっぽん」に傍点]から、奈落へ抜けまして、半四郎のような名代役者でございますれば、四五人もの後見の手をかりて、隈どりをしたり、変化のこしらえをしたりするのでございます――つまり、舞台に伏せられた鐘の中で扮装をせずに、すっぽんから、舞台下に抜け、そこで総ての用意をすませて、時間がくれば、またもとの、鐘の中へせり上るのでございます。ところが、この半四郎という俳優《ひと》は、鐘入りの場合に、決して、奈落へ抜けなかったのでございます。鐘が下りますと、舞台の上で、造りものの鐘に伏せられたまま、自分一人で蛇体の扮装をととのえ、隈どりももちろん、自分でなさっていたのでございます。……こうした話を聞きますと、誰しも、あのようなひとが、何故に、後見の手も借りずに、そうした不自由なことをなさるのであろうか――と、不審にお考えになるのでございます。それにはもちろん、何か、訳があったのに相違ございません。人々は折にふれては、自分勝手な臆測を逞《たくま》しゅうしていたのでございます。その中にも、穿《うが》ち過ぎたものに、かようなのがございました。それは、半四郎とても、以前は、娘道成寺の鐘入りには、普通、誰でもがするように、すっぽん[#「すっぽん」に傍点]から奈落に抜けそこで、後見の手を借りて、蛇体の扮装をし、それから、また、舞台に伏さった鐘の中へ迫り上るようになさっていた――しかし、何時かのこと、奈落へ下りる時、後見の不注意で、顛落《てんらく》した――怒《いかり》に燃えた半四郎が、男を責め折檻した。その男は、
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