※[#歌記号、1−3−28]鐘に恨《うらみ》は数々ござる、初夜の鐘を撞く時は、諸行無常と響くなり……。
と、重々しく、初まったのでございました。と、私といたしましたことが、この時に、初めて、気づいたので御座いますが、立三味線は、私のお師匠ではございません――杵屋新次さまでは御座いません。一のお弟子さまの杵屋新三郎さまなのでございます。私は、あまりの意外さに、あっと驚き、
「師匠が、どうして、三味線をお弾きにならないのでございましょう」と、独白《ひとりごと》したほどでございました。が、私は、この時に、ふと師匠に癪《しゃく》の持病が、おありになることを思い出し、これは、また、きっと、癪を起されたのであろう、それも悪い時に、と……、こんなことを考えたのでございます。しかし、破れるような、大向の懸声のうちに現われて参りました、金の烏帽子《えぼし》の白拍子に、思わず、私の目は引きつけられ、そのまま、お師匠さまのことは、忘れるともなく、お忘れ申していたのでございました。
※[#歌記号、1−3−28]鐘にうらみは数々ござる……。
この唄とともに、中啓《ちゅうけい》の舞が初まるのでございますが、さすがに、名優の至芸と申すのでございましょうか、鐘にうらみの妄執が、浸みでているようでございます。お客さまがたはただ、もう、うっとりと、舞台の上を、物のけにつかれた様に見まもっていらっしゃるばかしでございます。立三味線は、さきほども申しましたように、私のお師匠ではございませんが、さすがに、一のお弟子さんの新三郎さま、すっかり師匠そのままの、立派な撥さばき、たて唄の三郎治さまもすっかり、ご満足されて、お唄いになっていらっしゃる様子でございました。
唄の文句が、
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言わず語らぬ我が心、乱れし髪の乱るるも、つれないはただ移り気な、どうでも、男は悪性者……。
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と進んで参りますと、踊りの気分はすっかりと変って参りまして、さすがに、自他ともに許した踊りの名手でございましょう。さす手、引く手、そうした、手踊の初々しさ、――たしか、岩井半四郎は六十四歳でござりましたが――それほどの年寄った踊り手とは見えないほどな手足、そうして、躯の微妙な振り、きまりきまりの、初々しいあでやかさ、どう見ましてもまだ春に目覚めぬ娘としか考えられぬほどで御座いまして、師
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