といふ物産があるとか其地の商習慣がどうであるとか、斯の如き事柄は良く知つて居ると思ひます。併しながら尚一層進んで支那の宗教、道徳、政治、文學、或は支那の國民性支那文化の性質はどうかと云ふ樣な事、或は支那の動植物、鑛物、地理と云ふ事に付て、所謂學術的研究をする上に付て、どれだけ西洋人よりか我國の人が優つて居るか、西洋人の研究の結果より我國人の研究の結果の方がどれだけ優つてゐるかと云ふ事になると殘念ながらさうは優つて居ない、之は勿論私共支那を研究するものゝ恥辱であると云ふ事は申すまでもないが、一般の國民も惡いと思ひます。何でも今日の我國は西洋文化を有難がり西洋の事さへ知ればよろしい、てんで支那に興味を持つてゐない、我國の若い人達が漢文と云ふ事になると初めから嫌な感じを以つて迎へる。支那の事に付てどうして其智識を得るかと云ふと、支那の學者や日本の學者が研究したる者よりも、西洋人が研究したものであると、それを通じて支那の事情を知る。結局西洋人のかけた色眼鏡を拜借に及んで支那を見て居る、一體我國の支那に對する外交は自主的でなければならぬ、歐米の御先棒に使はれてはいかん歐米に追從してはいかんと云ふ
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