て、數千年來東西に興つて今日まで發達し來つた處の文化も宗教も道徳も政體、藝術、文學の類に至るまで全く東西性質を異にするのであつて、それが東洋西洋人の精神的生活、物質的生活を形造つて居るのである、處が今日に我東洋は西洋文化の爲めに壓迫せられて東洋文化が其光を失つて來た、而して元來東洋文化と云ふのは決して西洋文化に劣るべきではない、却而或點に於て之に優つて居る、それで我東洋人の立場としては其固有の文化を研究して之を世界に宣傳しなければならん、然るに東洋文明と云ふもそは先づ支那が代表的なものであると云ふ處から支那研究となる譯であります。今日我國の現状に對する或反動的の運動と見ても差支へないと思ふが、兎に角斯の如き其動機目的は之を唱へる人によつて一樣でないけれども、支那研究と云ふ聲の聞ゆる事は私共支那の學問を專攻する者にとつては少からず注意を引かされる事であります。さて此研究と云ふ事でありますが、之は口には云ひ易くして仲々之を實行し此の研究を爲し遂げると云ふことは頗る困難であります。一體我國と支那とは文字も見方によつては同一である又發音も少しは似通よつてゐる、又文章即ち漢文と云ふものは我國では
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