三爺《かだんな》から出る二十五両の雪白々々《シュパシュパ》の銀をそっくり乃公《おれ》の巾著《きんちゃく》の中に納めて一文もつかわねえ算段だ」
小栓はしずしずと小部屋の中から歩き出し、両手を以て胸を抑《おさ》えてみたが、なかなか咳嗽がとまりそうもない。そこで竈の下へ行ってお碗に冷飯《ひやめし》を盛り、熱い湯をかけて喫《た》べた。
華大媽はそばへ来てこっそり訊ねた。
「小栓、少しは楽になったかえ。やッぱりお腹《なか》が空くのかえ」
「いい包《パオ》だ。いい包《パオ》だ」
と康おじさんは小栓をちらりと見て、皆《みな》の方に顔を向け
「夏三爺はすばしッこいね。もし前に訴え出がなければ今頃はどんな風になるのだろう。一家一門は皆殺されているぜ。お金!――あの小わッぱめ。本当に大それた奴だ。牢に入れられても監守に向ってやっぱり謀叛《むほん》を勧めていやがる」
「おやおや、そんなことまでもしたのかね」
後ろの方の座席にいた二十《にじゅう》余りの男は憤慨の色を現わした。
「まあ聴きなさい。赤眼の阿義が訊問にゆくとね。あいつはいい気になって釣り込もうとしやがる。あいつの話では、この大清《だいしん》の天下はわれわれの物、すなわち皆《みな》の物だというのだ。ねえ君、これが人間の言葉と思えるかね。赤眼はあいつの家にたった一人のお袋がいることを前から承知している。そりゃ困っているにはちがいないが、搾り出しても一滴の油が出ないので腹を欠いているところへ、あいつが虎の頭を掻いたから堪らない。たちまちポカポカと二つほど頂戴したぜ」
「義哥《あにき》は棒使いの名人だ。二つも食ったら参っちまうぜ」
壁際の駝背がハシャギ出した。
「ところがあの馬の骨め、打たれても平気で、可憐《かわい》そうだ。可憐《かわい》そうだ、と抜かしやがるんだ」
「あんな奴を打ったって、可憐《かわい》そうも糞もあるもんか」
胡麻塩ひげは言った。
康おじさんは彼の穿《は》きちがえを冷笑した。
「お前さんは乃公《おれ》の話がよく分らないと見えるな。あいつの様子を見ると、可憐《かわい》そうというのは阿義のことだ」
聴いていた人の眼付はたちまちにぶって来た。小栓はその時、飯を済まして汗みずくになり、頭の上からポッポッと湯気を立てた。
「阿義が可憐《かわい》そうだって――馬鹿々々しい。つまり気が狂ったんだな」
胡麻塩ひげは大《おおい》にわかったつもりで言った。
「気が狂ったんだ」
と、二十《はたち》余りの男も言った。
店の中の客は景気づいて皆《みな》高笑いした。小栓も賑やかな道連れになって懸命に咳嗽をした。康おじさんは小栓の前へ行って彼の肩を叩き
「いい包《パオ》だ! 小栓――お前、そんなに咳嗽《せ》いてはいかんぞ、いい包《パオ》だ!」
「気狂《きちが》いだ」
と駝背の五少爺も合点《がてん》して言った。
四
西関外《せいかんがい》の城の根元に靠《よ》る地面はもとからの官有地で、まんなかに一つ歪《ゆが》んだ斜《はす》かけの細道がある。これは近道を貪る人が靴の底で踏み固めたものであるが、自然の区切りとなり、道を境に左は死刑人と行倒《ゆきだう》れの人を埋《うず》め、右は貧乏人の塚を集め、両方ともそれからそれへと段々に土を盛り上げ、さながら富家《ふけ》の祝いの饅頭を見るようである。
今年の清明節《せいめいせつ》は殊の外寒く、柳がようやく米粒ほどの芽をふき出した。
夜が明けるとまもなく華大媽は右側の新しい墓の前へ来て、四つの皿盛と一碗の飯を並べ、しばらくそこに泣いていたが、やがて銀紙を焚いてしまうと地べたに坐り込み、何か待つような様子で、待つと言っても自分が説明が出来ないのでぼんやりしていると、そよ風が彼女の遅れ毛を吹き散らし、去年にまさる多くの白髪《しらが》を見せた。
小路《こみち》の上にまた一人、女が来た。これも半白《はんぱく》の頭で襤褸《ぼろ》の著物の下に襤褸の裙《はかま》をつけ、壊れかかった朱塗《しゅぬり》の丸籠を提げて、外へ銀紙のお宝を吊し、とぼとぼと力なく歩いて来たが、ふと華大媽が坐っているのを見て、真蒼《まっさお》な顔の上に羞恥の色を現わし、しばらく躊躇していたが、思い切って道の左の墓の前へ行った。
その墓と小栓の墓は小路《こみち》を隔てて一文字《いちもんじ》に並んでいた。華大媽は見ていると、老女は四皿のお菜《さい》と一碗の飯を並べ、立ちながらしばらく泣いて銀紙を焚いた。華大媽は「あの墓もあの人の息子だろう」と気の毒に思っていると、老女はあたりを見廻し、たちまち手脚を顫わし、よろよろと幾歩か退《しりぞ》いて眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]って※[#「りっしんべん+正」、第3水準1−84−43]《おそ》れた。その様子が傷心のあまり今にも発狂しそうなので、華大媽は見かねて身を起し、小路《こみち》を跨いで老女にささやいた。
「老※[#「女+乃」、第4水準2−5−41]※[#「女+乃」、第4水準2−5−41]《ラオナイナイ》、そんなに心を痛めないでわたしと一緒にお帰りなさい」
老女はうなずいたが、眼はやッぱり上ずっていた。そうしてぶつぶつ何か言った。
「あれ御覧なさい。これはどういうわけでしょうかね」
華大媽は老女のゆびさした方に眼を向けて前の墓を見ると、墓の草はまだ生え揃わないで黄いろい土がところ禿げしてはなはだ醜いものであるが、もう一度、上の方を見ると思わず喫驚《びっくり》した。――紅白の花がハッキリと輪形《わがた》になって墓の上の丸い頂きをかこんでいる。
二人とも、もういい年配で眼はちらついているが、この紅白の花だけはかえってなかなかハッキリ見えた。花はそんなにも多くもなくまた活気もないが、丸々と一つの輪をなして、いかにも綺麗にキチンとしている。華大媽は彼女の倅の墓と他人の墓をせわしなく見較べて、倅の方には青白い小花がポツポツ咲いていたので、心の中では何か物足りなく感じたが、そのわけを突き止めたくはなかった。すると老女は二足三足、前へ進んで仔細に眼をとおして独言《ひとりごと》を言った。
「これは根が無いから、ここで咲いたものではありません――こんなところへ誰がきましょうか? 子供は遊びに来ることが出来ません。親戚も本家も来るはずはありません――これはまた、何としたことでしょうか」
老女はしばらく考えていたが、たちまち涙を流して大声上げて言った。
「瑜《ゆ》ちゃん、あいつ等はお前に皆《みな》罪をなすりつけました。お前はさぞ残念だろう。わたしは悲しくて悲しくて堪りません。きょうこそここで霊験をわたしに見せてくれたんだね」
老女はあたりを見廻すと、一羽の鴉《からす》が枯木《かれぎ》の枝に止まっていた。そこでまた喋り始めた。
「わたしは承知しております。――瑜ちゃんや、可憐《かわい》そうにお前はあいつ等の陥穽《かんせい》に掛ったのだ。天道様《てんとうさま》が御承知です、あいつ等にもいずれきっと報いが来ます。お前は静かに冥《ねむ》るがいい。――お前は果《はた》して、しんじつ果《はた》してここにいるならば、わたしの今の話を聴取ることが出来るだろう――今ちょっとあの鴉をお前の墓の上へ飛ばせて御覧」
そよ風はもう歇《や》んだ。枯草《かれくさ》はついついと立っている。銅線のようなものもある。一本が顫え声を出すと、空気の中に顫えて行ってだんだん細くなる。細くなって消え失せると、あたりが死んだように静かになる。二人は枯草《かれくさ》の中に立って仰向いて鴉を見ると、鴉は切立《きった》ての樹の枝に頭を縮めて鉄の鋳物《いもの》のように立っている。
だいぶ時間がたった。お墓参りの人がだんだん増して来た。老人も子供も墳《つか》の間《あいだ》に出没した。
華大媽は何か知らん、重荷を卸したようになって歩き出そうとした。そうして老女に勧めて
「わたしどもはもう帰りましょうよ」
老女は溜息|吐《つ》いて不承々々《ふしょうぶしょう》に供物《くもつ》を片づけ、しばらくためらっていたが、遂にぶらぶら歩き出した。
「これはまた、何としたことでしょうか」
口の中でつぶやいた。二人は歩いて二三十歩も行かぬうちにたちまち後ろの方で
「かあ」
と一声《いっせい》叫んだ。
二人はぞっとして振返って見ると、鴉は二つの翅《はね》をひろげ、ちょっと身を落して、すぐにまた、遠方の空に向って箭《や》のように飛び去った。
[#地から4字上げ](一九一九年四月)
底本:「魯迅全集」改造社
1932(昭和7)年11月18日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「彼奴→あいつ 或→ある 却って→かえって 屹度→きっと 呉れ→くれ 此処→ここ 此→この 宛ら→さながら 暫く→しばらく 即ち→すなわち 其→その 只→ただ 忽ち→たちまち 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと て仕舞った→てしまった 尚お→なお 筈→はず 甚だ→はなはだ 又・亦→また 未だ→まだ 丸切り→まるきり 若し→もし 矢ッ張り→やッぱり 余程→よほど」
※底本内には「燈」と「灯」が混在していますが、そのままにしました。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(加藤祐介)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年5月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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