勇と正気がある。親爺とアニキは顔色を失った。乃公の勇気と正気のために鎮圧されたんだ。
 だがこの勇気があるために彼等はますます乃公を食いたく思う。つまり勇気に肖《あやか》りたいのだ。親爺は門を跨いで出ると遠くも行かぬうちに「早く食べてしまいましょう」と小声で言った。アニキは合点した。さてはお前が元なんだ。この一大発見は意外のようだが決して意外ではない。仲間を集めて乃公を食おうとするのは、とりもなおさず乃公のアニキだ。
 人を食うのは乃公のアニキだ!
 乃公は人食《ひとくい》の兄弟だ!
 乃公自身は人に食われるのだが、それでもやっぱり人食の兄弟だ!

        五

 この幾日の間は一歩退いて考えてみた。たといあの親爺が首斬役でなく、本当の医者であってもやはり人食人間だ。彼等の祖師|李時珍《りじちん》が作った「本草《ほんそう》何とか」を見ると人間は煎じて食うべしと明かに書いてある。彼はそれでも人肉を食わぬと言うことが説き得ようか。
 家《うち》のアニキと来ては、全くそう言われても仕方がない。彼は本の講義をした時、あの口からじかに「子《こ》を易《か》へて而《しか》して食《くら》ふ」と言ったことがある。また一度、偶然ある好からぬ者に対して議論をしたことがある。その時の話に、彼は殺されるのが当然で、まさにその肉を食《くら》いその皮に寝《い》ぬべしと言った。当時わたしはまだ小さかったが、しばらくの間胸がドキドキしていた。先日|狼村《ろうそん》の小作人が来て、肝を食べた話をすると、彼は格別驚きもせずに絶えず首を揺り動《うご》していた。そら見たことか、おお根が残酷だ。「子《こ》を易《か》へて而《しか》して食《くら》ふ」がよいことなら、どんなものでも皆|易《か》えられる。どんな人でも皆食い得られる。わたしは彼の講義を迂濶に聞いていたが、今あの時のことを考えてみると、彼の口端には人間の脂がついていて、腹の中には人を食いたいと思う心がハチ切れるばかりだ。

        六

 真黒けのけで、昼かしらん夜かしらん。趙家の犬が哭き出しやがる。
 獅子に似た兇心、兎の怯懦《きょうだ》、狐狸《こり》の狡猾……

        七

 わたしは彼等の手段を悟った。手取り早く殺してしまうことは、いやでもあるし、またやろうともしないのだ。罪祟りを恐れているから、衆《みな》の者が連絡を取って網を張り詰め、わたしに自害を迫っているのだ。四五日このかた往来の男女の様子を見ても、アニキの行動を見ても八九分通りは悟られて来た。一番都合のいいのは、帯を解いて梁《はり》に掛け、自分で縊《くび》れて死ねば彼等に殺人の罪名がないわけだ。そうすれば自然願いが通って皆大喜びで鼠泣きするだろう。しかし驚き恐れ憂い悲しんで死んでも、いくらか痩せるくらいでまんざら役に立たないことはない。
 彼等は死肉を食べつつある!――何かの本に書いてあったことを想い出したが、「海乙那《かいおつな》」という一種の代物がある。眼光《めつき》と様子がとても醜い。いつも死肉を食って、どんな大きな骨でもパリパリと咬み砕き、腹の中に嚥《の》み下してしまう。想い出しても恐ろしいものだが、この「海乙那」は狼の親類で、狼は犬の本家である。先日趙家の犬めが幾度も乃公を見たが、さてこそ彼も一味徒党で、もう接洽《ひきあい》もすんでいるのだろう。あの親爺がいくら地面を眺めたって、乃公を胡魔化すことが出来るもんか。中にも気の毒なのは乃公のアニキだ。彼だって人間だ。恐ろしい事とも思わずに何ゆえ仲間を集めて乃公を食うのだろう。やっぱり永年《ながねん》のしきたりで悪い事とは思っていないのだろう。それとも良心を喪失してしまって、知っていながらことさら犯しているのだろう。
 わたしは食人者を呪う。まず彼から発起して食人の人達を勧誘し、また彼から先手をつける。

        八

 実際この種の道理は今になってみると、彼等もわかり切っているのだ。
 ひょっくり一人の男が来た。年頃は二十前後で、人相はあまりハッキリしていないが、顔じゅうに笑いを浮べてわたしに向ってお辞儀をした。彼の笑いは本当の笑いとは見えない。わたしは訊いてみた。
「人食いの仕事は旨く行ったかね」
 彼はやっぱり笑いながら話した。
「餓饉年じゃあるまいし、人を食うことなど出来やしません」
 わたしは彼が仲間であることにすぐに気がついた。人を食うのを喜ぶのだろうと思うと、勇気百倍して無理にも訊いてやろうと思う。
「うまく行ったかえ」
「そんなことを訊いてどうするんだ。お前は本統《ほんとう》にわかるのかね。冗当を言っているんじゃないかな。きょうは大層いい天気だよ」
 天気もいいし月も明るい。だが乃公はお前に訊くつもりだ。
「うまく行ったかえ」
 彼はいけないと思っ
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