であるが、澄《すま》し込んでいる。
彼女は、それと鉄片で体を堅めているものとは、別種であり、少しは糸口が探し出せるはずだと思って、すぐ訊いてみた……
「今のは何ごとだね?」
「サア何でしょうか」彼は少し頭を上げて言った……
「あの今の一騒ぎさ?」
「あの先ほどの騒ぎ?」
「戦争をしたんだろう?」彼女は仕方なく、自分で推測するより外なかった。
「戦争をしたんでしょうかね?」彼もそう訊くのであった。
女※[#「女+咼」、第3水準1−15−89]は冷い空気を吸い込み、顔を上げて天を仰いだ。天井の一条の裂目《さけめ》は非常に深く、また非常に広い。彼女が立ち上って、指先で弾いても、少しも澄んだ音はせず、破れ茶碗の音とほとんど違いがない。彼は眉をひそめ、四方を眺めて、またしばらく考えていたが、急に頭髪の水を絞り、分けて左右の肩に載せ、勇を鼓して方々から蘆《あし》を抜き採ったが、彼女は「修理してからにしよう」という考えを定めたのであった。
彼女は、この日から、昼も夜も、蘆を積み重ねていったが、蘆の高さにつれて、彼女も痩せてきた、なぜかというに、事情は前とは違い、仰いでは斜に歪んで裂けている天を見、俯しては破れに破れた大地を見るので、心や目を欣《よろこ》ばしめるものは少しもないからである。
蘆の山が天の裂口《さけぐち》に届いたので、彼女はここにはじめて青い石を捜すことになった。初《はじめ》には天と同じ色の真青《まっさお》な石を使おうと思っていたが、地上にはそんなに多くはないし、大きい山を使ってしまうには惜しいし、時に賑やかなところにいって、小さいのを探すこともあったが、見ているものが冷笑し、痛罵し、また取っては逃げ、ある時のごときは彼女の手に咬みつきさえするのであった。そこで彼女は、白い石をはめ、それで足らなければ、橙色のものと薄黒いものを集めて、後から出来上がるときに裂目につめ、火をつけてこれを熔接《ようせつ》して仕事を完成しようとしたが、彼女は疲れて、眼は充血し耳は鳴り、堪《こら》えきれない。
「あーあ、私は今までこんなにつまらないことはなかったわ」彼女はある山嶺に腰をかけ、両手で頭をかかえて、のぼせ上って言った。
このとき崑崙《こんろん》山上の大火はまだ熄《や》んでいず、西の空の端《はずれ》は真赤であった。彼女は、西の方を見て、そこから火のついている一株の大きい樹を持って来て、蘆の山に火をつけようと決心し、ちょうど手を伸そうとしたときに、脚の指を何か刺すのに気がついた。
彼女が下を見ると、相変らず前に作った小さいものであるが、よりいっそう異様である。何だか布《きれ》のようなものを幾重にも体に纏い、腰には特別に十数本の布をつけ、頭には何だか判らないものを被っており、天辺には真黒な小さい長方形の板を戴き、手には何か提げているが、脚の指を刺すのはこれである。
長方形の板を載せているのは、女※[#「女+咼」、第3水準1−15−89]の両腿の間に立って上を向いて、彼女を一眼見ると急いでその小さい一片を差し上げた。彼女が続いて見ていると、それは非常に滑らかな青い竹で、その頂に二筋の黒い細い点があり、それは槲《かし》の樹の葉の上にある黒点よりも、遥《はるか》に小さい。彼女はかえって、その技術の精巧なことに感服した。
「これは何だ?」彼女は好奇心に駆れれて、また思わず訊かずにはおられなかった。
長方形の板を載せているのが、竹片《たけぎれ》を指して、立板に水を流すごとくにいった。「裸※[#「ころもへん+呈」、第3水準1−91−75]《らてい》淫佚《いんしつ》で、徳を失い礼を蔑《ないがし》ろにし、度を敗るは、禽獣《きんじゅう》の行いである。国には常刑《じょうけい》あり、ただこれを禁ずる」
女※[#「女+咼」、第3水準1−15−89]はその長方形の板に対して、目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]ったが、自分の訊き方が悪かったことを微笑した。彼女は本来、こんなものと掛合っていては、いつも話が判らないことを知っていたから、その上口をきかないで、すぐその竹片を頭の上の長方形の板に載せ、手を回して燃えている森の中から、火のついている一株の樹を引き抜いて、蘆の山に火をつけようとした。
たちまちすすりなく声が聴こえたが、今まで聴いたことのない巧みさであったから、彼女はちょっともう一度下を見た。すると、長方形の板の下の小さい眼は、芥子粒《けしつぶ》より小さい二粒の涙を漾《たた》えているのが見える。それは、彼女が先ほど聴き慣れていた「オギア、オギア」という鳴き声とは、よほど違っているから、これも一種の啼き声だとは知らない。
彼女はすぐ火をつけたが、一個所だけではなかった。
火の勢《いきおい》は決して盛《さかん》ではなく、蘆も乾き切ってはいない、しかし俄《にわ》かにボウボウと音がし、久しくたってから、とうとう無数の焔の舌が伸び、伸びては縮みしつつ昇ってゆく、また久しくして、焔は花房となり、また火の柱となり、真赤になって、崑崙山嶺の紅焔《ぐえん》を圧倒するようになった。大風が俄に起って、火の柱は巻き上ってうなり、青や色々な石は一様に赤くなり、飴のように、裂目に流れ込んだが、それは一条の不滅の電《いなずま》のようである。
風と火の勢《いきおい》で、彼女の頭髪は捲き込まれ、四方に乱れて囘転し、汗は滝のように奔流し、火焔は彼女の体を照らし、宇宙の間に最後の肉紅色を現わした。
火の柱は漸次に昇り、ただ蘆灰《あしばい》の一山のみを残した。彼女は天が一面に紺碧色になるのを待って、ようやく手を押してさわってみたが、掌によほどムラがあるように感じた。
「気力を養ってから、またやろう……」と彼女は、自分に思った。
そこで彼女は、腰をかがめて、蘆灰を掬い上げては、地上の水のなかに入れたが、蘆灰がまだ冷え切らないから、水がジュウジュウと沸き、灰水《はいみず》が彼女の全身に濺がれる、まだ大風も熄んではいないから、灰が体に打ちかけられ、彼女は灰色になってしまった。
「ウム!……」と、彼女は最後の呼吸《いき》を吐いた。
天の果てには、真紅の雲の間に、光線を四方に放った太陽がある。流れる金の玉が、大昔の溶岩のなかに包まれているようである。他の一方は、鉄のように冷い白い月がある。しかし、どちらが昇ってどちらが下るのかは判らない。このとき、自らのすべてを自ら使い果たした彼女の体が、このなかに横わり、もう呼吸もしないでいた。
上下四方は、死にまさる静寂である。
三
天気の非常に寒いある日、やや騒々しさが聴えた。それは禁軍がとうとう殺到してきたのである。彼等は火の光と煙塵《えんじん》の見えないときを待っていたから、到著《とうちゃく》が遅れたのである。彼等は左に一本の黄《きいろ》い斧、右に一本の黒い斧、後に一本の非常に大きくて古い軍旗をひらめかして、まっしぐらに女※[#「女+咼」、第3水準1−15−89]の屍《かばね》の周りに攻め寄せたが、いっこう何等の動静も見えない。彼等は、屍の腹の皮の上に要塞を築いたが、そこが一番|※[#「月+叟」、第4水準2−85−45]《あぶらぎ》っているからである。彼等はこんなことを選択するのに、非常に悧巧である。しかし彼等は、俄にスローガンを改め、彼等こそ女※[#「女+咼」、第3水準1−15−89]の直系であるといい、同時に大旗の文字を「女※[#「女+咼」、第3水準1−15−89]氏の腸」と書き換えた。
あの海岸に落ちた年老いた道士も、幾千代《いくちよ》永らえたが、死際《しにぎわ》になって、仙山が大きい鼈《すっぽん》の背に載せられたという要件を、弟子に伝え、弟子はまたその弟子に伝えたが、後世になって一人の方士が好いことをしようとして、秦の始皇に上奏し、秦の始皇は方士に命じてこれを探しめた。
方士が仙山を探し当てないで、秦の始皇は遂に死んだ、漢の武帝もまたこれを探さしたが、これまた影さえも見つからない。
たぶん、大きな鼈どもは、女※[#「女+咼」、第3水準1−15−89]の話が判らないで、そのとき何かの機《はずみ》でちょっと肯き、よい加減にしばらくの間背負っていった後で、皆睡くなって散り散りに別れたので、仙山もそれにつれて沈んでしまったのであろう。それゆえ、神仙山の半分も見たものはなく、精々幾つかの野蛮の島を発見したにすぎないのである。
[#地から4字上げ](一九二二年十一月)
底本:「魯迅全集」改造社
1932(昭和7)年11月18日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の書き換えをおこないました。
「嗚呼→ああ 恰も→あたかも 或る→ある 如何→いかん 一向→いっこう 一層→いっそう 且つ→かつ 曾て→かつて 如く→ごとく 此の→この 暫く→しばらく 仕舞う→しまう 頗る→すこぶる 其→その 沢山→たくさん 只→ただ 惟だ→ただ 忽ち→たちまち 多分→たぶん 給→たま 一寸→ちょっと 丁度→ちょうど 何故→なぜ 筈→はず 程→ほど 殆ど→ほとんど 亦→また 復た→また 未だ→まだ (て)見→み 勿論→もちろん 稍々→やや 故→ゆえ 漸く→ようやく 余程→よほど」
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(鈴樹尚志)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2007年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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