はひやりとして手を放した。下顎の骨はふらふらと坑の底へ帰ってゆくと同時に彼は中庭に逃げ出した。彼は偸《ぬす》み眼して部屋の中を覗くと、燈光はさながら輝き、下顎の骨はさながら冷笑《あざわら》っている。これは只事《ただごと》でないからもう一度向うを見る気にもなれない。彼は少し離れた簷下《のきした》に身を躱《かく》してようやく落ち著きを得たが、この落ち著きの中にたちまちひそひそとささやく声が聞えた。
「ここではない。……山の中へ行け」
陳士成はかつて白昼、街の中でこれと同じ人声を聴いたことを想い出し、彼はもう一度聞かぬ先きに、おおそうだと悟った。彼は突然仰向いて空を見ると、月はすでに西高峯《せいこうほう》の方面に隠れ去った。町を去る三十五里の西高峯は眼の前にあり、笏《しゃく》を執る朝臣《ちょうしん》の如く真黒に頑張って、その周囲にギラギラとした白光は途方もなく拡がっていた。しかもこの白光は遠くの方ではあるが、まさに前面にあった。
「そうだ。あの山に行こう」
彼はこう決して打ちしおれて出て行った。幾度も門を開《あ》け閉《た》てする音がしたあとで、門の中はひっそりとしてそよとの声もない。燈火は一しきり明るくなって空部屋《あきべや》と洞空《ほらあな》を照したが、パチパチと幾声《いくこえ》か破裂したあとで、だんだん縮少して、ありたけになった残油《のこりあぶら》はすでに燃え尽してしまった。
「城門を開けて下さい」
大きな希望を含みながら恐怖の悲声、かげろうにも似ている西関門《せいかんもん》前の黎明の中に戦々兢々として叫んだ。
二日目の日中、西門から十五里の万流湖《ばんりゅうこ》の中に一つの土左衛門《どざえもん》を見た人があって大騒ぎとなり、終《つい》に地保《じほ》の耳に達し、土地の者に引揚げさせてみると、それは五十余りの男の死体で、「中肉中脊、色白く鬚《ひげ》無し、すっぱだかで上衣も下袴《したばかま》も無い。ある人がそれは陳士成だといったが、近処の者は面倒くさがって見にも行かなかった。死体の引受人もないから県の役人が立会って検屍の上、地保に渡して埋葬した。死因は至っては当然問題ではない。死人の衣服を剥ぎ取ることはいつもあることで、謀殺の疑いを引起す余地がない。そうして検屍の証明では、「生前、水に落ちて水底に藻掻《もが》いたから、十本の指甲《つめ》の中には皆河底の泥が食い込
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