頭髪の故事
魯迅
井上紅梅訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)剥取暦《はぎとりごよみ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)本田|博士《はくし》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「髟/几」、第4水準2−93−19]
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 日曜日の朝、わたしは剥取暦《はぎとりごよみ》のきのうの分を一枚あけて、新しい次の一枚の表面を見た。
「あ、十月十日――きょうは双十節だったんだな。この暦には少しも書いてない」
 わたしの先輩の先生Nは、折柄わたしの部屋に暇潰しに来ていたが、この話を聞くと非常に不機嫌になった。
「彼等はそれでいいんだ。彼等は覚えていないでも、君はどうしようもないじゃないか。君が覚えていてもそれがまた何になる」
 このN先生というお方は本来少し変な癖があって、ふだんちょっとしたことにも腹を立て、ちっとも世間に通ぜぬ話をする。そういう時にはいつもわたしは彼一人に喋舌《しゃべ》らせて一言も合槌を打たない。彼は一人で議論を始め、一人で議論を完結すればそれで納得するのだ。
 彼は説く。
「わたしは北京《ペキン》の双十節の次第を最も感服するのである。朝、警官が門口に行って『旗を出せ』と吩咐《いいつ》ける。彼等は『はい、旗を出します』と答える。どこの家でも大概は不承々々に一人の国民が出て来て、斑点だらけの一枚の金巾《かなきん》を掲げて、こうしてずっと夜まで押しとおし――旗を収めて門を閉めるのであるが、そのうち幾軒は偶然取忘れて次の日の午前まで掲げておく。
 彼等は記念日を忘れ、記念日もまた彼等を忘れる。
 わたしもこの記念日を忘れる者の一人だが、もし想い出すとすれば、あの第一双十節前後のことで、それが一時に胸に迫って来て、いろいろの故人の顔が皆眼の前に浮び出し、居ても立ってもいられなくなる。幾人の青年は、十年の苦心空しく、暗夜に一つの弾丸を受けて彼の命を奪《と》られたことや、幾人の青年は暗殺に失敗して監獄に入れられ、月余の苦刑を受けたことや、幾人の青年は遠大の志を抱きながら、たちまち行方不明になって首も身体《からだ》もどこへ行ったかしらん――
 彼等は社会の冷笑、悪罵、迫害、陥穽の中に一生を過し、現在彼等の墓場は早くも忘却され、次第々々に地ならしされてゆく。わたしはこれらの事を記念するに堪えない。それよりもわたしは今だに覚えている小気味のいい話をして聞かせよう」
 Nはたちまち笑顔になり、手を伸ばして自分の頭を撫でまわしながら、声高に語った。
「わたしの最も得意としたのは、最初の双十節以後のことで、その時はもうわたしが道を歩いても人から笑われることがない。
 老兄、君は知っているだろうが、髪の毛はわれわれ中国人の宝であり、かつ敵である。昔から今までどれほど多くの人が、この頂きのために何の直打《ねうち》もない苦しみを受けつつあったか?
 ずっと昔のわれわれの古人について見ると、髪の毛は極めて軽く見られていたらしい。刑法に拠れば人の最も大切なものは頭脳だ。それゆえに大辟《しけい》は上刑である。次に必要なものは生殖器である。それゆえに宮刑《さおきり》と幽閉《へいもん》は、これもまた人を十分威嚇するに足る罰である。※[#「髟/几」、第4水準2−93−19]《かみきり》に至っては微罪中の微罪だが、かつてどれほど多くの人が、くりくり坊主にされたため、彼の社会から彼の大事な一生を蹂躙されたかしれん。
 われわれは革命の講義をする時、楊州十日《ようしゅうとおか》(清初更俗強制《しんしょこうぞくきょうせい》の殺戮)とか、嘉定屠城《かていとじょう》とか大口開いて言ったものだが、実は一種の手段に過ぎない。ひらたくいうと、あの時の中国人の反抗は亡国などのためではない、ただ辮子《べんつ》を強いられたために依るのだ。
 頑民《がんみん》は殺し尽すべし、遺老は寿命が来れば死ぬ。辮子はもはやとどめ得た。洪《こう》、揚《よう》(長髪賊の領袖《りょうしゅう》)がまたもや騒ぎ出した。わたしの祖母がかつて語った。その時の人民ほど艱《つら》いものはない。髪を蓄えておけば官兵に殺される、辮子を付けておけば長髪賊に殺される。
 どれほど多くの中国人がこの痛くも痒くもない髪のために苦しみを受け、災難を蒙り、滅亡したかしれん」
 Nは二つの眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って屋根裏の梁を眺め、しばらく思いめぐらしてなお説き続けた。
「まさか髪の毛の苦しみが、わたしの番に廻って来ようとは思わなかった。
 わたしは留学に出るとすぐに髪を切った。これは別に深い意味があったわけでなく、ただこれがあると何かにつけて
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