るにもせよ、まず第一にドアがノックされねばならぬ。――こういう風なら安心していられる。彼女が白菜なぞを抱え込んで来るはずがないのだから
『Come in, please my dear.』
 しかしだ。主人公が文芸なぞを語っている閑がない時にはどうしたものだろう。いっそ放《ほ》ったらかしておくか。彼女が外に立って、いつまでもドンドン叩いていたら? そんなことはまずまず出来ないことだ。そういうことは、ひょっとすると、『理想の良人』の中に出ているかもしれない。あれはたしかにいい小説に違いない。今度原稿料が入ったら一冊買ってみてやろう……」
 ピシャリ!
 彼の腰ッ骨は、ピンとなった。と云うのもこれまでの経験で、このピシャリの音は、妻が三つになる女の子の頭をひっぱたく音だからだ。
「幸福な家庭……」彼は子供のしゃくり上げる声を聞きつけた。
 彼はまだ腰をピンとさせたまま考えていた。
「子供は遅く出来るものは遅く出来るが、あるいはいっそない方がいいのかもしれない。二人でキレイさっぱりと――あるいはいっそ下宿住まいをする方がいいのかもしれない、あとは何もかもあいつ等に請負わせて、自分一人でキレイさっぱりと」
 啜り泣きの声がますます大きくなってきたので、彼はまたも立上り、門幕《カーテン》を潜《くぐ》り出て、「マルクスは子供の泣声の中でも、資本論を書き上げたから彼は偉人である……」と、考えながら、外に出て風除けの戸を開けると、石油の匂いがぷんとした。子供は門の右辺に横たわって顔を地面《じべた》に向けていたが、彼の顔を見るとわっと泣き出した。
「おお、よしよし。泣くでないぞ泣くでないぞ。好い子だ」
 と、彼は腰を曲げて女の子を抱いた。
 彼が子供を抱いて行《ゆ》こうとすると、門の左の所には妻が立っていて、腰骨を真直ぐにして両手を腰に置き、怒気憤々《どきふんぷん》としてさながら体操の操練《そうれん》でも始めそうな勢《いきおい》。
「あなたまでもわたしを馬鹿にするんだね。人の仕事の手伝いもしないで、邪魔するだけだ。――その上、洋灯《ランプ》をひっくりかえしったら晩には何を点《つ》けるんです?……」
「おお、よしよし、泣くでないぞ泣くでないぞ」
 彼は顫《ふる》え声を跡に残して子供を部屋に抱き入れ、頭を撫でて「好い子だ好い子だ」といいながら下へ卸し、椅子を引寄せて子供を両膝の間に置いて坐し、手を上げて言った。「泣くでないぞ、好い子だから、お父さんはね、猫が顔を洗うところを見せてやるぞ」と、彼は首を伸してペロリと舌を出し、手の掌《ひら》を離して二度ばかり空《くう》を舐めて、その手で自分の顔の上に円を描いてみせた。
「あ、ははは、乞食」
 子供はすぐに笑い出した。
「そうそう、乞食だ」
 彼はまたしてもいくつも円を描いてようやく手を休めてみると、子供はにこにこ笑いながら、涙に濡れている眼で彼を見ている。何んと云う可愛らしい、天真な顔だろうと彼は思った。ちょうど五年ばかり前、この子の母親の脣《くちびる》がこんなに真紅《まっか》だったが、これはその縮少《しゅくしょう》だと思えばいいだろう。あの時は晴れ渡った冬の日で、彼女は、俺がどんな障害にも反抗し、彼女のためであったなら甘んじて犠牲になると云うのを聴いて、この通りに莞爾《にっこ》と笑いながら、涙で一杯になった眼で俺を見たのではなかったか。彼はぼんやりして、そこに坐ったまま、少しは醉《え》い心地になった。
「ああ、可愛い脣……」
 と、彼は思いに耽っていた。
 突然だった。カーテンが開かれて、薪が運ばれて来た。彼はハッとした。子供はまだ涙で一杯になった眼で、真紅《まっか》な脣を開《あ》いたまま彼を見ている。
「脣……」
 彼が側《そば》に眼を呉れた時は、薪はもう運ばれていた。「……おそらくは将来これもまた五五の二五、九九八十一にでもなるんだろう! 二つの眼玉を気味悪く光らせて……」彼はこう思いながら、表題だけ書いた原稿用紙と計算の数字を書いた原稿用紙を手荒く引張り出し、それを揉苦茶《もみくちゃ》にしてまた引き延ばし、子供の涙や鼻涕《はなじる》を拭き取った。
「好い子だから向うへ行って一人でお遊び」
 彼は子供を推しのけながら、紙を丸めて力任せに紙屑籠の中に抛り込んだ。
 彼は子供にも、フイと飽き足らなくなったが、重ねてまた振返えると子供がヨチヨチ部屋を出て行《ゆ》くのを見た。耳には木ッ端の音を聞きながら。
 彼は気を落著《おちつ》けようとして眼を閉じ、雑念を拒止《きょし》して心を落著けて腰を下した。彼は一つのひらたい丸い黒い花が、黄橙《おうとう》の心《しん》をなして浮き出し左眼《さがん》の左角《ひだりかど》から漂うて右に到って消え失せた。続いて一つの明緑花《めいりょくか》と黒緑色《こくりょくしょく》の心と、続いて六株《むかぶ》の白菜の積荷がきッぱりと彼に向ってはなはだ大きなA字を形成した。
[#地から4字上げ](一九二四年三月十八日)



底本:「魯迅全集」改造社
   1932(昭和7)年11月18日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「彼奴→あいつ 貴方→あなた 或る→ある 或は→あるいは (て)居→い 何時→いつ (て)置→お 恐らく→おそらく 位→くらい 且つ→かつ 曾て→かつて 位→くらい 宛ら→さながら (て)仕舞→しま 頗る→すこぶる 其処→そこ 其→その 沢山→たくさん 慥か→たしか 忽ち→たちまち 多分→たぶん 為め→ため 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと 就て→ついて 何処→どこ 取も直さず→とりもなおさず 尚更→なおさら 中々→なかなか 何故→なぜ 許り→ばかり 筈→はず 甚だ→はなはだ 先ず→まず 益々→ますます 又・亦→また 未だ→まだ 丸で→まるで (て)見→み 若し→もし 勿論→もちろん 矢張→やはり 稍→やや」
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(山本貴之)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2005年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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