の人達は、自分で運び出しました」阿Qはその話が出ると憤々《ぷんぷん》した。
「持ち出してどこへ行ったんだ。話せば赦《ゆる》してやるよ」親爺はまたしんみりとなった。
「わたしは知りません。……あの人達はわたしを呼びに来ません」
 そこで親爺は目遣《めつか》いをした。阿Qはまた丸太格子の中に抛《ほう》り込まれた。彼が二度目に同じ格子の中から引きずり出されたのは二日目の午前であった。
 大広間の模様は皆もとの通りで、上座には、やはりくりくり坊主の親爺が坐して、阿Qは相変らず膝を突いていた。
 親爺はしんみりときいた。「お前はほかに何か言うことがあるか」
 阿Qはちょっと考えてみたが、別に言う事もないので「ありません」と答えた。
 そこで一人の長い著物を著た人は、一枚の紙と一本の筆を持って、阿Qの前に行《ゆ》き、彼の手の中に筆を挿し込もうとすると、阿Qは非常におったまげて魂も身に添わぬくらいに狼狽した。彼の手が筆と関係したのは今度が初めてで、どう持っていいか全くわからない。するとその人は一箇所を指《ゆびさ》して花押《かきはん》の書き方を教えた。
「わたし、……わたしは……字を知りません」阿Qは筆をむんずと掴んで愧《はず》かしそうに、恐る恐る言った。
「ではお前のやりいいように丸でも一つ書くんだね」
 阿Qは丸を書こうとしたが筆を持つ手が顫えた。そこでその人は彼のために紙を地上に敷いてやり、阿Qはうつぶしになって一生懸命に丸を書いた。彼は人に笑われちゃ大変だと思って正確に丸を書こうとしたが、悪《にく》むべき筆は重く、ガタガタ顫えて、丸の合せ目まで漕ぎつけると、ピンと外へ脱《はず》れて瓜のような恰好になった。
 阿Qは自分の不出来を愧かしく思っていると、その人は一向平気で紙と筆を持ち去り、大勢の人は阿Qを引いて、もとの丸太格子の中に抛り込んだ。
 彼は丸太格子の中に入れられても格別大して苦にもしなかった。彼はそう思った。人間の世の中は大抵もとから時に依ると、抓み込まれたり抓み出されたりすることもある。時に依ると紙の上に丸を書かなければならぬこともある。だが丸というものがあって丸くないことは、彼の行いの一つの汚点だ。しかしそれもまもなく解ってしまった、孫子であればこそ丸い輪が本当に書けるんだ。そう思って彼は睡りに就いた。
 ところがその晩挙人老爺はなかなか睡れなかった。彼は少尉殿と仲たがいをした。挙人老爺は贓品《ぞうひん》の追徴が何よりも肝腎だと言った、少尉殿はまず第一に見せしめをすべしと言った。少尉殿は近頃一向挙人老爺を眼中に置かなかった。卓《つくえ》を叩き腰掛を打って彼は説いた。
「一人を槍玉に上げれば百人が注意する。ねえ君! わたしが革命党を組織してからまだ二十日《はつか》にもならないのに、掠奪事件が十何件もあってまるきり挙らない。わたしの顔がどこに立つ? 罪人が挙っても君はまだ愚図々々している。これが旨く行《ゆ》かんと乃公の責任になるんだよ」
 挙人老爺は大《おおい》に窮したが、なお頑固に前説を固持して贓品の追徴をしなければ、彼は即刻民政の職務を辞任すると言った。けれど少尉殿はびくともせず、「どうぞ御随意になさいませ」と言った。
 そこで挙人老爺はその晩とうとうまんじりともしなかったが、翌日は幸い辞職もしなかった。
 阿Qが三度目に丸太格子から抓み出された時には、すなわち挙人老爺が寝つかれない晩の翌日の午前であった。彼が大広間に来ると上席にはいつもの通り、くりくり坊主の親爺が坐っていた。阿Qもまたいつもの通り膝を突いて下にいた。親爺はいとも懇《ねんご》ろに尋ねた。「お前はまだほかに何か言うことがあるかね」
 阿Qはちょっと考えたが別に言うこともないので、「ありません」と答えた。
 長い著物を著た人と短い著物を著た人が大勢いて、たちまち彼に白金巾《しろかたきん》の袖無しを著せた。上に字が書いてあった。阿Qははなはだ心苦しく思った。それは葬式の著物のようで、葬式の著物を著るのは縁喜《えんき》が好くないからだ。しかしそう思うまもなく彼は両手を縛られて、ずんずんお役所の外へ引きずり出された。
 阿Qは屋根無しの車の上に舁《かつ》ぎあげられ、短い著物の人が幾人も彼と同座して一緒にいた。
 この車は立ちどころに動き始めた。前には鉄砲をかついだ兵隊と自衛団が歩いていた。両側には大勢の見物人が口を開け放して見ていた。後ろはどうなっているか、阿Qには見えなかった。しかし突然感じたのは、こいつはいけねえ、首を斬られるんじゃねえか。
 彼はそう思うと心が顛倒《てんとう》して二つの眼が暗くなり、耳朶の中がガーンとした。気絶をしたようでもあったが、しかし全く気を失ったわけではない。ある時は慌てたが、ある時はまたかえって落著《おちつ》いた。彼は考えているうちに、人間の世の中はもともとこんなもんで、時に依ると首を斬られなければならないこともあるかもしれない、と感じたらしかった。
 彼はまた見覚えのある路を見た。そこで少々変に思った。なぜお仕置に行《ゆ》かないのか。彼は自分が引廻しになって皆に見せしめられているのを知らなかった。しかし知らしめたも同然だった。彼はただ人間世界はもともと大抵こんなもんで、時に依ると引廻しになって皆に見せしめなければならないものであるかもしれない、と思ったかもしれない。
 彼は覚醒した。これはまわり道してお仕置場にゆく路だ。これはきっとずばりと首を刎《は》ねられるんだ。彼はガッカリしてあたりを見ると、まるで蟻のように人が附いて来た。そうして図らずも人ごみの中に一人の呉媽を発見した。ずいぶんしばらくだった。彼女は城内で仕事をしていたのだ。彼はたちまち非常な羞恥を感じて我れながら気が滅入ってしまった。つまりあの芝居の歌を唱《うた》う勇気がないのだ。彼の思想はさながら旋風のように、頭の中を一まわりした。「若寡婦《わかごけ》の墓参り」も立派な歌ではない。「竜虎図」の「後悔するには及ばぬ」も余りつまらな過ぎた。やっぱり「手に鉄鞭《てつべん》を執ってキサマを打つぞ」なんだろう。そう思うと彼は手を挙げたくなったが、考えてみるとその手は縛られていたのだ。そこで「手に鉄鞭を執り」さえも唱《とな》えなかった。
「二十年過ぎればこれもまた一つのものだ……」阿Qはゴタゴタの中で、今まで言ったことのないこの言葉を「師匠も無しに」半分ほどひり出した。
「好《ハオ》※[#感嘆符三つ、186−6]」と人ごみの中から狼の吠声のような声が出た。
 車は停まらずに進んだ。阿Qは喝采の中に眼玉を動して呉媽を見ると、彼女は一向彼に眼を止めた様子もなくただ熱心に兵隊の背の上にある鉄砲を見ていた。
 そこで、阿Qはもう一度喝采の人を見た。
 この刹那、彼の思想はさながら旋風のように脳裏を一廻りした。四年|前《ぜん》に彼は一度山下で狼に出遇《であ》った。狼は附かず離れず跟いて来て彼の肉を食《くら》おうと思った。彼はその時全く生きている空《そら》は無かった。幸い一つの薪割を持っていたので、ようやく元気を引起し、未荘まで持ちこたえて来た。これこそ永久に忘られぬ狼の眼だ。臆病でいながら鋭く、鬼火のようにキラめく二つの眼は、遠くの方から彼の皮肉を刺し通すようでもあった。ところが彼は今まで見た事もない恐ろしい眼付を更に発見した。鈍くもあるが鋭くもあった。すでに彼の話を咀嚼したのみならず、彼の皮肉以上の代物を噛みしめて、附かず離れずとこしえに彼の跡にくっついて来る。これ等の眼玉は一つに繋がって、もうどこかそこらで彼の霊魂に咬みついているようでもあった。
「助けてくれ」
 阿Qは口に出して言わないが、その時もう二つの眼が暗くなって、耳朶の中がガアンとして、全身が木端微塵に飛び散ったように覚えた。

 当時の影響からいうと最も大影響を受けたのは、かえって挙人老爺であった。それは盗られた物を取返すことが出来ないで、家《うち》じゅうの者が泣き叫んだからだ。その次に影響を受けたのは趙家であった。秀才は城内へ行って訴え出ると、革命党の不良分子に辮子を剪られた上、二万文の懸賞金を損したので家《うち》じゅうで泣き叫んだ。その日から彼等の間にだんだん遺老気質が発生した。
 輿論の方面からいうと未荘では異議が無かった。むろん阿Qが悪いと皆言った。ぴしゃりと殺されたのは阿Qが悪い証拠だ。悪くなければ銃殺されるはずが無い! しかし城内の輿論はかえって好くなかった。彼等の大多数は不満足であった。銃殺するのは首を斬るより見ごたえがない。その上なぜあんなに意気地のない死刑犯人だったろう。あんなに長い引廻しの中《うち》に歌の一つも唱《うた》わないで、せっかく跡に跟いて見たことが無駄骨になった。
[#地から4字上げ](一九二一年十二月)



底本:「魯迅全集」改造社
   1932年(昭和7年)11月18日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「彼奴→あいつ 或→ある 或は→あるいは 些か・聊か→いささか 一層→いっそう 一旦→いったん 愈々→いよいよ 所謂→いわゆる 於いて→おいて 大方→おおかた 却・反って→かえって か知ら→かしら 且つ→かつ 曾て→かつて 可成り→かなり 屹度→きっと 位→くらい 此奴→こいつ 極く→ごく 極々→ごくごく 此処→ここ 此の→この 此処→ここ 之→これ 偖て→さて 宛ら→さながら 併し→しかし 而も→しかも 然らば→しからば 従って→したがって 暫く→しばらく 仕舞う→しまう 随分→ずいぶん 頗る→すこぶる 即ち→すなわち 折角→せっかく 是非とも→ぜひとも 其→その 大分→だいぶ・だいぶん 沢山→たくさん 丈け→だけ 唯・只→ただ 但し→ただし 忽ち→たちまち 例如ば→たとえば 給え→たまえ 為→ため 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと 就いて→ついて 詰り→つまり て置→てお て呉れ→てくれ て見→てみ て貰→てもら 何処→どこ 兎に角→とにかく 尚お・猶お→なお 猶更→なおさら 中々→なかなか 許り→ばかり 筈→はず 甚だ→はなはだ 程→ほど 殆んど・幾んど→ほとんど 正に→まさに 況して→まして 先ず→まず 又・亦→また 未だ→まだ 儘→まま 丸切り→まるきり 丸で→まるで 若し→もし 勿論→もちろん 尤も→もっとも 矢張り→やはり 已むを得ず→やむをえず 漸く→ようやく 余ッ程→よッぽど 余程→よほど 俺→わし」
ただし、一部のカタカナ表記については、あらためていません。
※底本に混在している「灯」「燈」はそのままにしました。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(山本貴之)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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