中《うち》でたった一人の女僕《じょぼく》であった。皿小鉢を洗ってしまうと彼女もまた腰掛の上に坐して阿Qと無駄話をした。
「奥さんはきょうで二日御飯をあがらないのですよ。だから旦那は小妾《ちいさい》のを一人買おうと思っているんです」
「女……呉媽……このチビごけ」と阿Qは思った。
「うちの若奥さんは八月になると、赤ちゃんが生れるの」
「女……」と阿Qは想った。
 阿Qは煙管《きせる》を置いて立上った。
「内《うち》の若奥さんは……」と呉媽はまだ喋舌《しゃべ》っていた。
「乃公とお前と寝よう。乃公とお前と寝よう」
 阿Qはたちまち強要と出掛け、彼女に対してひざまずいた。
 一|刹那《せつな》、極めて森閑《しんかん》としていた。
 呉媽はしばらく神威《しんい》に打たれていたが、やがてガタガタ顫え出した。
「あれーッ」
 彼女は大声上げて外へ馳《か》け出し、馳《か》け出しながら怒鳴っていたが、だんだんそれが泣声に変って来た。
 阿Qは壁に対《むか》って跪坐《きざ》し、これも神威に打たれていたが、この時両手をついて無性《ぶしょう》らしく腰を上げ、いささか沫《あわ》を食ったような体《てい》でドギマギしながら、帯の間に煙管を挿し込み、これから米搗きに行《ゆ》こうかどうしようかとまごまごしているところへ、ポカリと一つ、太い物が頭の上から落ちて来た。彼はハッとして身を転じると、秀才は竹の棒キレをもって行手を塞いだ。
「キサマは謀叛《むほん》を起したな。これ、こん畜生………」
 竹の棒はまた彼に向って振り下された。彼は両手を挙げて頭をかかえた。当ったところはちょうど指の節の真上で、それこそ本当に痛く、夢中になって台所を飛び出し、門を出る時また一つ背中の上をどやされた。
「忘八蛋《ワンパダン》」
 後ろの方で秀才が官話《かんわ》を用いて罵る声が聞えた。
 阿Qは米搗場に駈《かけ》込んで独り突立っていると、指先の痛みはまだやまず、それにまた「忘八蛋《ワンパダン》」という言葉が妙に頭に残って薄気味悪く感じた。この言葉は未荘の田舎者はかつて使ったことがなく、専《もっぱ》らお役所のお歴々《れきれき》が用ゆるもので印象が殊の外深く、彼の「女」という思想など、急にどこへか吹っ飛んでしまった。しかし、ぶっ叩かれてしまえば事件が落著して何の障《さわ》りがないのだから、すぐに手を動かして米を搗き始め、しばらく搗いていると身内が熱くなって来たので、手をやすめて著物《きもの》をぬいだ。
 著物《きもの》を脱ぎおろした時、外の方が大変騒々しくなって来た。阿Qは自体賑やかなことが好きで、声を聞くとすぐに声のある方へ馳《か》け出して行った。だんだん側《そば》へ行ってみると、趙太爺の庭内でたそがれの中ではあるが、大勢|集《あつま》っている人の顔の見分けも出来た。まず目につくのは趙家のうちじゅうの者と二日も御飯を食べないでいる若奥さんの顔も見えた。他に隣の鄒七嫂《すうしちそう》や本当の本家の趙白眼《ちょうはくがん》、趙司晨《ちょうししん》などもいた。
 若奥さんは下部屋《しもべや》からちょうど呉媽を引張り出して来たところで
「お前はよそから来た者だ……自分の部屋に引込んでいてはいけない……」
 鄒七嫂も側《そば》から口を出し
「誰だってお前の潔白を知らない者はありません……決して気短なことをしてはいけません」といった。
 呉媽はひた泣きに泣いて、何か言っていたが聞き取れなかった。
 阿Qは想った。「ふん、面白い。このチビごけが、どんな悪戯《いたづら》をするかしらんて?」
 彼は立聴きしようと思って趙司晨の側《そば》までゆくと、趙太爺は大きな竹の棒を手に持って彼を目蒐《めが》けて跳び出して来た。
 阿Qは竹の棒を見ると、この騒動が自分が前に打たれた事と関係があるんだと感づいて、急に米搗場に逃げ帰ろうとしたが、竹の棒は意地悪く彼の行手を遮った。そこで自然の成行きに任せて裏門から逃げ出し、ちょっとの間《ま》に彼はもう土穀祠《おいなりさま》の宮の中にいた。阿Qは坐っていると肌が粟立《あわだ》って来た。彼は冷たく感じたのだ。春とはいえ夜になると残りの寒さが身に沁《し》み、裸でいられるものではない。彼は趙家に置いて来た上衣《うわぎ》がつくづく欲しくなったが、取りに行けば秀才の恐ろしい竹の棒がある。そうこうしているうちに村役人が入って来た。
「阿Q、お前のお袋のようなものだぜ。趙家の者にお前がふざけたのは、つまり目上を犯したんだ。お蔭で乃公はゆうべ寝ることが出来なかった。お前のお袋のようなものだぜ」
 こんな風に一通り教訓されたが、阿Qはもちろん黙っていた。挙句の果てに、夜だから役人の酒手を倍増しにして四百文出すのが当前《あたりまえ》だということになった。阿Qは今持合せがないから一つの帽子を質
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